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水の歴史館 大谷池築造計画からの道のり 7.昭和南海地震(昭和21年)の被害

ページID:0070402 更新日:2015年1月15日更新 印刷ページ表示

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大谷池築造計画からの道のり

7.昭和南海地震(昭和21年)の被害

復旧工事中の大谷池(右側上部が位置変更後の斜樋)の写真
復旧工事中の大谷池(右側上部が位置変更後の斜樋)
グラウト注入工事(排水溝の内部)の写真
グラウト注入工事(排水溝の内部)

 大谷池は、昭和21年(1946)12月21日に発生した昭和南海地震(注1)で堰堤中央部に提頂(ていちょう)(注2)に平行して、延長109m、幅21cm、深さ4.6mの亀裂が入り、提頂の内提側も18cm下がり、斜樋はスリースバルブのシャフトが切断され、使用不能となりました。さらに、底樋管(そこひかん)にも数か所亀裂が入り、漏水し、貯水が出来なくなったほか、幹線水路にある大日川サイフォンには1.8mの亀裂が入り、通水不能となりました。

 小松町長(注3)は災害復旧計画を立て、測量調査を行っていたところ、大谷池のすぐ真下の南川地区の住民が、災害時に堰堤が決潰(けっかい)(注4)すれば、大被害をもたらす恐れがあるということで、大谷池を廃止にするか縮小することを要求して紛糾しました。

 その頃、京都大学農学部の高槻博士が、大谷池の流出水の実地調査の研究中であったため、同教授に調査を依頼し、地元住民とともに調査を行い、復旧計画について指導や助言を受け、地元住民を説得していただいて計画を作成しました。

 この計画では、土堰堤中心部にある斜樋管は震災があった場合、再度被災する恐れがあるということで、右岸地山部へ位置を変更しました。底樋管は、上部半円形の鉄筋コンクリート伏桶(ふせおけ)とし、コンクリートで巻立てを行いました。また、堤防天巾部の亀裂の修復は、掘削を行い、中心鋼土に合わせて原形復旧を行い、余水吐は西側の側壁部分を練石積にしました。

 この災害復旧工事は、昭和22(1947)~25年(1950)にかけて行われました。昭和27年に土地改良法の改正で、小松町第一土地改良区が設立され、大谷池の維持管理を引き継いでいます。

昭和21年昭和南海地震災害復旧工事後の大谷池全景の写真
昭和21年昭和南海地震
災害復旧工事後の大谷池全景
昭和21年昭和南海地震災害復旧工事後の大谷池余水吐の写真
昭和21年昭和南海地震
災害復旧工事後の大谷池余水吐

 その後も使用を継続していましたが、堰堤や樋の老朽化が進んできたため、地元住民から改修を望む声が強くなり、県営防災ダム事業(注5)として、平成12(2000)~19年度(2007)にかけて改修工事が行われました。

平成12から19年度 改修工事後の大谷池全景
平成12~19年度
改修工事後の大谷池全景
平成12から19年度 改修工事後の大谷池余水吐
平成12~19年度
改修工事後の大谷池余水吐

(注1)昭和南海地震・・・昭和21年(1946)12月21日午前4時19分に発生。震源は和歌山県の潮岬南南西沖約78キロ、震源の深さは24キロ、地震の規模はマグニチュード8.0、最大震度5、被害は中部から九州までの25府県におよび、死者1,330人、家屋全壊11,591、半壊23,487、流出1,451、焼失2,598。
(注2)提頂・・・堰堤の上部で平面となったところ。通常、管理用道路となっている。
(注3)小松町長・・・耕地整理事業完了後の大正11年、大谷池は小松町第一普通水利組合となり、小松町長が組合長となっていました。
(注4)決潰・・・堰堤が切れて壊れること。
(注5)県営防災ダム事業・・・地震対策ため池防災工事。

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