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水の歴史館 大谷池築造計画からの道のり 6.耕地整理法による大谷池の築造

ページID:0070401 更新日:2015年1月15日更新 印刷ページ表示

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大谷池築造計画からの道のり

6.耕地整理法による大谷池の築造

 大谷池築造工事開始頃の写真
大谷池築造工事開始頃(写真右上の藁葺き屋根の家辺りに堰堤が造られた。)

 大谷池の築造計画が中止となった後、明治32年(1899)には耕地整理法が制定されましたが、主な目的は「土地区画の整理」でした。その後、明治38年(1905)に耕地整理法が改正され、「用排水工事」が加えられました。さらに、明治42年(1909)には「かんがい排水事業、暗渠排水、開墾、地目変更」などが加えられたことで、食糧増産のための土地改良事業を拡大していく条件が整えられ、大谷池築造計画が再び水を得た龍の如く、息を吹き返すこととなりました。

 耕地整理法第50条に「耕地整理組合ヲ設立セムトスルトキハ組合の地区タルヘキ区域内ノ土地所有者総数の二分の一以上ニシテ其ノ区域内ノ土地ノ総面積及総地価ノ各三分ノ二以上ニ当ル土地所有者ノ同意ヲ得テ設計書及規約ヲ作リ地方長官ノ認可ヲ受クヘシ」とあり、計画区域の総面積・総地価の3分の2以上の土地所有丞者の同意があれば、不賛成者を含め、その全域について工事を強行できるようになりました。

 かんがい排水の改良を含む、土地の抜本的な整備は、作付面積の増加をもたらし、地主層にとっては小作料の増収につながる有利な法律でした。また、米価の高騰や国の助成に支えられ、小作争議の解決策としても効果を果たすものでした。

 大谷池の築造は、愛媛県の技手であった小田切豊吉(おだぎりとよきち)、野間市之丞(のまいちのじょう)が設計監督を行うこととなり、大正元年(1912)10月から11月にかけて測量調査が行われ、計画書が作成されました。

 大正3年(1914)1月21日、小松町耕地整理組合(組合長森田恭平、副組合長今井巻太郎、事務担当者池原麟三)が設立され、同年2月6日、耕地整理(池の築造、幹線水路、開田、道路、水路等圃場整備)に伴う先行事業として、当時、愛媛県内で最大(現在は愛媛県内で3番目に大きな池)といわれた大谷池築造工事が開始されることとなりました。

減制工コンクリート打設状況の写真
減制工コンクリート打設状況
小松町耕地整理組合 組合長 森田恭平の写真
小松町耕地整理組合
組合長 森田恭平

 その後、大谷池の起工式が大正3年(1914)2月6日に行なわれ、築造が開始されました。当時は機械力の工事ではなく、全て人力による土木工事であり、土砂の運搬はモッコ担ぎで、二人一組となり藁縄(わらなわ)で編んだモッコを担ぎ土砂の運搬を行いました。賃金は「箱ぬき」という方法(木枠の大きさ:1.8m×1.8m×0.6m)がとられ、一箱運搬して20銭で、1日に2箱運搬するのが普通といわれました。

 池の築造は、堰堤を十分つき固めることが最も重要なことで、左右の山の良質な粘土や土砂を切り崩して運搬し、つき固めは、通称「亀の子」(注1)にロープを取り付け、婦女子6人~10人が一組となり、つき固めを行いました。毎日20個の亀の子を使用したということから、1日当り200人ほどの人が働いていたことになります。作業中には「亀の子搗(つ)き音頭」が歌われ、近隣からたくさんの見物人が訪れ、工事現場は大変なにぎわいだったといいます。

 堰堤の中心部(縦方向)には漏水(ろうすい)(注2)防止のため提水壁(ていすいへき)(注3)が打ち込まれています。また、余水吐(よすいばけ)は堤防の西側隅にあり、大島石の石板(せきばん)が敷き詰められました。

 樋門は堰堤北側の中央下部にレンガ積みで造られていますが、このレンガは大阪の窯業(ようぎょう)のレンガを使用しています。また、当時県下にはイギリス積み(注4)のできる技術者がいなかったため、大阪方面から技術者を招き、大規模で高度な技術を駆使してレンガが積まれました。そして、着工から3年後の大正6年(1917)3月に大谷池が完成しました。

 その後、大谷池築造を含む耕地整理事業の全工事が完了したのは大正9年(1920)12月10日で、着工から完成まで約7年間を要した小さな村の一大プロジェクト事業でした。

大谷池斜樋(しゃひ)(注5)完成の写真
大谷池斜樋(しゃひ)(注5)完成
小松川サイフォン試験通水(小松川右岸)の写真
小松川サイフォン試験通水(小松川右岸)

大谷池の構造、堰堤の諸元

所在地 小松町大字南川字大谷乙1~2番地
受益地及び面積 小松町大字新屋敷、大字南川 200町歩
構造型式 中心鋼土型土堰堤
堤高 29m
堤長 220m
満水面積 10.7ha
最大水深 22.6m
貯水量 1,032,000立方メートル
設計監督 小田切豊吉

(注1)亀の子・・・大島石(花崗岩)を薄い円柱状(直径約36センチ、厚み約14センチ、重さ約40kg)に加工し、中央部へ横方向に深い溝をつけ、そこにロープを巻きつけ、さらに10本のロープを放射線上に引き出し、先端を10人ほどで持ち、持ち上げては落すことを繰り返して土を固めるもので、もっとも原始的な転圧用具。

上から見たところ
上から見たところ
横から見たところ
横から見たところ

(注2)漏水・・・水が漏れること。
(注3)提水壁・・・当時セメントは高価であったため、全面利用はできず、粘土と石灰を混ぜてつき固めた「刃金土」(はがねつち)の両側をセメントで固めた止水板。
(注4)イギリス積み・・・レンガの長手だけの段、小口だけの段と一段おきに積む方式です。このほかにも、一段に長手と小口を交互に積む方式のフランドル積み(フランス積み)や、レンガの小口のみをジグザグに積み上げていくドイツ積み、レンガの長手のみをジグザグに積みあげていく長手積みなどがあります。

イギリス積みの写真
イギリス積み
アーチ型樋門の写真
アーチ型樋門

(注5)斜樋・・・池の水を取水するための提体法面(斜面)の内側に設置する施設で、古くは杁(いり、いる)、揺(ゆる)とも言われた。

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