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水の歴史館 黒瀬の記憶 5.心のふるさと黒瀬(5)

ページID:0070417 更新日:2015年1月15日更新 印刷ページ表示

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黒瀬の記憶

5.心のふるさと黒瀬(5)

・山と海との交流から水稲の実験田まで

 当時、黒瀬集落からの移転の候補地として宇摩郡の蕪崎(かぶらざき)と、河原津新田(旧三芳町)の二つの候補地があり、どちらにするか議論がありましたが、旧三芳町の積極的な働きかけがあり、河原津新田に落ち着いたわけです。

丹 政美氏(左)と丹 巡氏(右)の写真
丹 政美氏(左)と丹 巡氏(右)
 それから、黒瀬の人は河原津へ、河原津の人は黒瀬へと出向いていくようになり、交流をしている中で、干拓地の荒地を実験田として借用し、農業が可能かどうかの実験をするという話がまとまりました。
 そのころの河原津新田の干拓地は、天井へつかえるほどの葦(よし)が繁茂していたため、とりあえず、3~5畝ほどの田んぼを開墾することにしました。実験田の土は全て沖の砂(海砂)であったため、除塩が必要でした。米を作るにしても、水を入れ耕して5分も経つと、塩気を含んだ土は元通りに固まるため、大変な手間を要しました。

 米は、塩分に対してかなり強いということで、水稲の実験を行うこととし、黒瀬の全員から希望者を募り、水番も決めました。実験田に水を入れて大型のトラクターで耕した後、水が澄むのを待っている間に土が固まってしまうため、一人が先鍬(さきぐわ)で穴を開け、次の人がすぐに稲の苗を植え付けるという重労働で、長続きする者はいませんでした。
 それでも、根気よく2年間水稲の実験をした結果、「何とかやっていけそうだ。」ということになり、河原津新田に49町8反(534,600平方メートル)の田んぼを購入し、黒瀬から15世帯が入植しました。
 当時のことを知る人は、今となっては数人になってしまいましたが、何年もの歳月をかけて整備した田んぼに米が実る様子を見るたび、苦労した甲斐があったと思わずにはいられません。

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