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水の歴史館 黒瀬の記憶 5.心のふるさと黒瀬(6)

ページID:0070418 更新日:2015年1月15日更新 印刷ページ表示

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黒瀬の記憶

5.心のふるさと黒瀬(6)

・子供のころの思い出 -四季回想-

伊藤儀定氏の写真1枚目
花王CMK株式会社
中四国リージョン販売開発新規事業担当
伊藤儀定氏
 私が通っていた黒瀬小学校では、2つの学年が同じ部屋で授業を受ける複式学級で、閉校当時、私は小学校の3年生でした。昭和44年4月時点で、在校していた児童数は13名、閉校となる昭和45年3月までに5名は転校し、閉校時の在校生は1年生1名、3年生5名(男2名、女3名)6年生2名の計8名にまで少なくなっていました。私は閉校となった後、4月に一家で市内の加茂町へ転居し、大町小学校へ転校しました。
 私の自宅は黒瀬のちょうど真ん中にあって、小学校は自宅から徒歩で10分くらいのところにありました。登下校の時にはいろんなところで悪さの限りをつくしていたと思います。
 父親は西条市内へ働きに出て、母親は一日中畑仕事をしていたため、子供たちはどこへ行くにも子供同士で行動を共にしていました。そんな環境の中で少年期を過ごしたため、自然と自立心が育っていったのかもしれません。

 春には、田植えの終わった他人の田んぼで、泥んこになりながら泳ぎまくり、稲苗を駄目にしてしまい、こっぴどく叱られた経験があります。
 夏になると、加茂川が子供たちの遊び場でした。また、黒瀬小学校にはプールが無く、水泳の授業はすべて加茂川で行われていました。今思えば、なんとも贅沢で風流な授業であったと思います。そんなのどかな授業風景は、今や日本全国どこを探しても無いと思います。

 黒瀬に住んでいたころは小学校低学年だったので、危険な川の深場には行けませんでした。その代わりに、毎日のように浅瀬に行っては「いだ取りビン」(注1)を仕掛けました。たくさんの小魚を取って帰ると、母親が天ぷらにしてよく食べさせてくれました。私が今のように太ったのは、子供のころ毎日のように食べた小魚の天ぷらと、飼っていたヤギの乳のせいかも知れません。(笑)
(注1)いだ取りビン・・・全国的には「ハヤ取りビン」と呼ばれる魚の捕獲容器。透明の容器で、片方に「ぬか味噌」や「練り餌」を塗り、川底に沈めておくと、臭いに引き寄せられた魚が中へ入り、抜け出すことができないもの。
伊藤儀定氏の写真2枚目

 秋と言えば果物の季節です。アケビ、山葡萄(やまぶどう)、野いちご、みかん、柿、ざくろ、など、山や里にある果物は、すべて自分達のものという感覚があり、地域の人たちもそれをとがめることはありませんでした。丸い渋柿を甘柿と思って食べたこともあります。なんとも渋い思い出です。黒瀬から転居した後、母親が店で果物を買っていることが不思議でなりませんでした。

伊藤儀定氏の写真3枚目
身振り手振りを交えて
黒瀬の思い出を熱く語る
伊藤儀定氏
 冬にはよく干し柿を食べたものです。軒先に吊るしてある干し柿もまた、すべて自分達のものという感覚でした。また、大雪が降ったときなどは、スズメが黒瀬の里に多く飛来してきました。竹かごの片方を上げ、角に棒を立て、長いヒモを取り付けます。餌を竹かごの下に置いて、陰に隠れてスズメがやって来るのを待ちます。単純な仕掛けですが、この仕掛けでたくさんのスズメを取って焼き鳥にして食べたものです。
 とにもかくにも、黒瀬には遊び場が少なかったため、近所の家もよく散策しました。近所の家に上がり込み、鍋の中に靴下を入れて煮込んだこともあります。あの鍋はどうなったのでしょう。
 黒瀬は今ダムの底に眠っていますが、自然の中で、遊び、学び、育ててくれた子供のころの黒瀬の思い出は、私の脳裏に強く残っています。黒瀬はいつまでも黒瀬に住んでいた人の「心のふるさと」です。

【参考文献】
  黒瀬峠(伊藤 一著)
  黒瀬郷土史(秋山英一著)
  西條の歴史探訪(明比 学著)
  西條市誌(西条市)
  西條誌(日野暖太郎和照)

【取材協力】
  大保木公民館、丹巡氏、三木秋男氏、伊藤新平氏

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