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黒瀬ダム建設の話が持ち上がったのは、昭和16年4月29日、西條町を中心に合併し、市制を施行して「西條市」が誕生した時のことです。地域振興策として沿岸部を埋立てて工場を誘致した場合、危惧される水不足への対策として黒瀬にダムを建設しようという新市の基本構想に基づくものでした。
黒瀬ダムは、昭和16年から県営で施工することで調査を進め、併行して補償の話し合いを行い、ダムサイトのボーリングや、事務所及び労務者住宅の建築が終わるところまで進んでいました。
しかしながら、昭和16年(1941)12月8日に始まった太平洋戦争が進展するにつれて、次第に労力やセメント、鋼材などの資材が少なくなり、発破を仕掛ける孔を掘るための特殊な鋼棒もなくなるという状況になりました。
昭和19年(1944)には、西条から高知へ砲車の通る軍用道路(予土線)を造るために、各市町村に人員の割り当てを行うなど、総動員体勢で道路を建設することになりました。黒瀬ダム事務所にあった資材、器具類はすべて予土線建設工事に使われることとなったため、やむなくダム建設は中止となりました。
黒瀬の山崎地区(左)と大畑地区(右) 昭和8年ころ
写真提供:尾野和夫氏(西条市)