本文
藩政時代には、トウモロコシ、稗(ひえ)、栗、麦、豆、サツマイモなどが産出されていました。米は兎之山、黒瀬を除いてほとんど取れませんでした。
時代の変遷とともに産出されるものは変わり、良質のお茶や三椏(みつまた)、楮(こうぞ)の樹の皮が産出されるようになり、他の地方のものよりも高く取引されていました。
また、黒瀬では段々畑で綿が栽培されていたため、ダムに水没するまで『木綿地(きわたじ)』という地名が残っていました。 ほかにも、兎之山のゴボウ、今宮の夏人参など特色のあるものがありました。大保木地区には「オクサイジョウ」(注1)という柿が特産としてありましたが、今ではほとんど見かけることが無くなりました。 (注1)オクサイジョウ・・・あたご柿の半分くらいの大きさの柿 |
オクサイジョウ |
藩政時代には、西条藩の主要産物4品目のうちの1つである寸太木(ずたぎ:木材)を加茂川に流して運搬していました。昔の加茂川は、現在と違い水量が多かったようです。杉皮を取るために、春と秋の年2回伐採し、降雨による増水時に数十人の人夫を集め、筏(いかだ)に組んで流していました。雨が止めば水量も少なくなるので、次の雨で増水するのを待ったといいます。神戸釜之口(かんべかまのくち)、大町加茂町、加茂川河口の古川土場(ふるかわどば:加茂川河口の右岸)などで陸上げされ、製材工場で製品にしていました。また、丸太のまま駄馬で氷見に送られるものもありました。
古川土場
『西條誌』より
大正12年(1923)ころ、黒瀬峠から氷見に通じる県道が開通し、黒瀬大畑で陸上げされた木材は、荷馬車で氷見へ送られるようになり、氷見の山道付近の2~3軒の製材工場で製品にしたものを荷馬車で町場まで運んでいました。
村人の大半は、木の植え付け、下刈り、伐採、運材(うんざい)(注2)、炭焼き、木流し(きながし)(注3)などの林業労務に従事していました。大保木から来た筏師(いかだし)は、運材が終わると、神戸の湯ノ谷から氷見を通り、黒瀬峠を越えて帰っていました。
県道が整備・延長されたことで、陸上の運搬手段は荷馬車からトラックへと変わっていき、木流しは徐々に減って昭和25年(1950)ころに無くなったと言われています。
戦後の混乱期、木材の需要が急増し、価格が高騰したときに、道路が山奥まで開通していたことで、濫伐(らんばつ)されることとなりましたが、おかげで村人は林業労務に従事することができたわけです。しかし、戦後60年以上も経過した現在、木は伐採できるまでに成長していますが、経費高騰により輸入木材に押され、そのほとんどが伐採されていません。
(注2)運材・・・切り出して集めた木材を集積地へ運ぶこと。
(注3)木流し・・・伐採しておいた木を川に流し出すこと。
木流し風景(舞丈から中野方面を望む)昭和9年3月ころ
写真提供:尾野和夫氏(西条市)
また、大保木村では鉱業も盛んでした。明治時代から西之川には鉱山があり、初期には西之川で精錬し、粗銅としてレンガ状にしたものを千野々まで人が背負って運び、千野々から氷見までは駄馬で搬出していました。その後も鉱山が相次いで開発されましたが、いずれも硫化銅鉱(りゅうかどうこう)で品位が低かったため、第二次世界大戦後にすべて廃鉱となりました。