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水没前の黒瀬地区
写真提供:伊藤新平氏(西条市)
国道11号線から西条市氷見で県道142号線(県道石鎚伊予小松停車場線)に入り、南へ向かって車を走らせていくと、加茂川の中野大橋(中野)から始まる県道125号線(主要地方道西条久万線)と合流します。そこに黒瀬峠があり、その裾野に黒瀬集落がありました。
緩やかに蛇行する加茂川の両側に水田が広がり、山裾(やますそ)のあちこちに人家がありました。中央構造線(注1)が村の中心部を走っており、河床には見事に露出した日本でもめずらしい観察ポイントがありました。
また、川床には「鮎の飛び」(深い渕)や多数の瓶穴(甌穴:おうけつ)、滑石(なめら石:平らな畳敷のような岩盤)があり、風光明媚(ふうこうめいび)な桃源郷(とうげんきょう)のようなところで、見る者に懐かしさを感じさせるような山村の風景でしたが、その風景は黒瀬湖の底に眠っています。
(注1)中央構造線・・・7,000万年ほど前に、すでにアジア大陸の東の端にできていた日本列島の大陸側半分に、南からやって来た太平洋側の半分が合体して日本列島ができました。その接合面を中央構造線といい、全長1,000kmを超える日本最大の大きな断層です。
黒瀬(中央上が鮎の飛び・中央下が甌穴)
『西條誌』より
かつて集落内にあった黒瀬小学校の校舎(家庭科室)の資材は、黒瀬団地(飯岡)の自治会集会所建築に使われ、形を変えて今も黒瀬の人たちに貢献しています。
また、光昌寺(こうしょうじ)、森岡神社やほかの社は黒瀬峠の高台に移築されています。このほかにも、昭和61年に黒瀬出身者らの寄付で建立された三十三観音が黒瀬ダムの周りで静かに故郷を見守っています。
光昌寺山門(移築) |
光昌寺本殿(移築) |
森岡神社鳥居(移築) |
森岡神社費拝殿(移築) |