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黒瀬峠
黒瀬に住んでいた112世帯、300人余りの人たちや、異郷にあって常にまぶたに黒瀬を描いていた郷土出身者にとっては、故郷はかけがえのない土地であり、山河であり、心のふれ合いの場所でした。その人たちの願いは、黒瀬がダムにならず、東予新産業都市が実現した場合に、その住宅地になることであったといいます。
黒瀬という地名は、戦国時代の文献にすでに記述されており、何百年も前から人の住んでいたところで、天正13年(1586)天正の陣(豊臣秀吉の四国征伐)のとき、城主黒瀬飛弾守道信が「野々市の原の戦い」に出陣して戦死しています。
江戸時代には銀納義民(ぎんのうぎみん)の事件もありましたが、時として中央の動きに伴走しつつ、独自の歴史を刻んでいます。
昔は氷見から黒瀬峠を越えて浦山に至る駄馬(だば:荷物を運搬する馬)の通る道があって、この道を往還(大きい道のこと)と呼んでいました。そのころは流木(りゅうぼく)が盛んで、毎日のように加茂川に木材を流していました。大正の初め、兎之山から西条に行く村道が開け、今の県道12号線(主要地方道西条久万線)となり、大正12年ころ、大畑より黒瀬峠を越えて氷見に至る県道142号線(県道石鎚伊予小松停車場線)ができました。
黒瀬飛弾守道信が居を構えていたところ (黒瀬ダム1号公園下) | 黒瀬飛弾守道信を祀る飛騨神社 (森岡神社の北側に移築) |
昭和4年(1929)ころ、学校の前の大黒橋が架設され、浦山に至る林道が開通しました。昭和7年の農村不況の時に、山崎道が村道として一部建設され、昭和23年(1948)に神力橋、昭和24年(1949)にススガセ橋、昭和28年(1953)に大畑橋(おおばたけばし)、昭和30年(1955)に柳瀬橋(やながせばし)等が架設され、また、県道から大黒橋までの間や山崎からススガセ橋を結ぶ道路の改修が行われています。橋が架設される前は、一枚板を渡した橋が6か所かかっているのみで、少しの洪水でも流されていました。
明治のはじめころ、黒瀬には酒井弁蔵というソロバンの名人がいて、黒瀬峠を越えて遠くから習いに来る人がいたといいます。弁蔵は測量術にもすぐれており、黒瀬の用水路の多くはこの人の測量によって造られたため、この時代に開田が盛んに行われました。
産業では、製紙をしていたと伝えられています。
また、本郷の伊藤猪之作は、稲の正条植を率先して行い、村外からも視察に来たこともあり、「八反づり」という除草器を考案してこれを使用していました。
大正の初年には、産業組合が他地区よりいち早く設立されるなど、産業振興に積極的に取り組んでいたことが想像されます。
ススガセ橋 | 大畑橋 |
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