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水の歴史館 志川掘抜隧道(志川切抜水道)

印刷用ページを表示する 掲載日:2015年1月15日更新

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志川掘抜隧道(志川切抜水道)

 西条市丹原町の志川地区は、昔から志河川(しこがわ)の水をかんがい用水に利用しようとしましたが、地勢が不利で容易ではありませんでした。湯谷口井手下から本川に筧〔かけひ=竹や木の樋(とい)〕をかけ、水上権現山の元へわずかな水を渡し利用していましたが、寛文5年(1665)、周布郡三津屋村(現在の西条市三津屋)の石工(いしく)米屋三郎右衛門が公儀より銀5貫(かん)360匁(もんめ)で工事を請負い、寛文7年(1667)2月28日に丹原町志川の権現山の下を上下2段に切り抜いた隧道(トンネル)が完成しました。

 この工事の完成により、前面水路と東部水路に分けてかんがいが出来るようになったため、農地の利用が進み、この地域の農業経営が安定したことはいうまでもありません。

 規模は、長さ14間(約25.4m)、高さ5尺~7尺(約1.5m~2.1m)、横2尺~3尺(約0.6m~0.9m)で、岩山切貫井口より切貫まで59間(107.3m)のうち、37間(約67.3m)が石切貫井手で、22間(約40m)が土井手組でした。

志川掘抜隧道(西条市丹原町志川 権現山下)
志川掘抜隧道(西条市丹原町志川 権現山下)の写真
普段は水のカーテンで遮られて見ることが出来ない隧道(トンネル)の出口

 その後、明治35年(1902)、志川(現在の西条市丹原町志川)の資産家の野田峰次郎が水車を設置する際に、従来井堰がしばしば決壊していたのを改善したいということで、延長56間(101.8m)の岩石切割水路を設け、井堰を現在の鳥越(とりごえ)の位置に変更しました。以来、水害の心配がなくなりました。工費は私費で当時200円の大枚が投じられました。なお、本川の水掛り反別は40町(40ヘクタール)余りでした。

 本遺跡は「切貫溝」とも言われ、江戸時代初期の土地改良遺跡として有名だったようです。原拠は『伊与古蹟志』(いよこせきし)ですが、松山藩の藩政研究史料とされる『垂憲録拾遺』(松山藩士竹内信英編)には次のように記されています。

『垂憲録拾遺』(松山藩士竹内信英編)

 現在も志川掘抜隧道はかんがい用水路として使用されていますが、現存しているものは上下2段の隧道のみとなっています。西条市丹原町にはこのほかにも、関屋の切抜隧道(江戸時代に松山藩によって竣工)などもありますが、志川掘抜隧道と劈巌透水路(へきがんとうすいろ)が西条市指定の史跡となっています。

志川掘抜隧道の「上の段」取水口の写真
志川掘抜隧道の「上の段」取水口

志川掘抜隧道の「下の段」取水口の写真
志川掘抜隧道の「下の段」取水口

「上の段」「下の段」の水路と志河川の写真
「上の段」「下の段」の水路と志河川

志川掘抜隧道「上の段」入口の写真
志川掘抜隧道「上の段」入口

志川掘抜隧道「上の段」出口の写真
志川掘抜隧道「上の段」出口

志川掘抜隧道「下の段」入口の写真
志川掘抜隧道「下の段」入口

志川掘抜隧道「下の段」出口(正面奥)の写真
志川掘抜隧道「下の段」出口(正面奥)

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