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水の歴史館 劈巌透水路

印刷用ページを表示する 掲載日:2015年1月15日更新
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劈巌透水路

 西条市丹原町来見地区の中山川左岸に、岸壁をノミと鎚(つち)で削って造られたかんがい用水路があります。劈巌透水路 (へきがんとうすいろ)と呼ばれ、安永9年(1780)に来見村の大庄屋越智喜三左衛門(おちきさざえもん)(1743-1797)によって起工されました。

劈巌透水路かんがい用水取入れ口(来見堰のあった所)の写真
劈巌透水路かんがい用水取入れ口(来見堰のあった所)

劈巌透水路の写真
劈巌透水路
(掘割水路)

劈巌透水路の写真
劈巌透水路
(今も岩盤に残る削岩機ビットの跡)

劈巌透水路(1番隧道入口)の写真
劈巌透水路(1番隧道入口)

劈巌透水路(1番隧道出口)
劈巌透水路(1番隧道出口)

劈巌透水路(2番隧道入口)の写真
劈巌透水路(2番隧道入口)

劈巌透水路(2番隧道出口)の写真
劈巌透水路(2番隧道出口)

劈巌透水路(3番隧道入口)の写真
劈巌透水路(3番隧道入口)

劈巌透水路(3番隧道出口)の写真
劈巌透水路(3番隧道出口)

劈巌透水路(4番隧道入口)の写真
劈巌透水路(4番隧道入口)

劈巌透水路(4番隧道出口)の写真
劈巌透水路(4番隧道出口)

 来見本田のかんがい用水は来見(くるみ)堰で中山川の水を取水していましたが、不完全で水不足に困っていたのを喜三左衛門がこれを嘆き、松山藩へ再三にわたり修繕改築工事を願い出ましたが許可にならず、ついに居宅や田畑を売り、その私財をもって工事に取りかかりました。自身もノミを握り、槌を振るい隧道(ずいどう=トンネル)を造りました。中央構造線の大断層のど真ん中に隧道を抜くという難工事のため岩盤を砕き続けること9年間、気の遠くなるような苦労を重ね、寛政元年(1789)に長さ12間(約21.7メートル)の井堰(いぜき)と20間(約36.2メートル)の隧道、及び76間(約137.5メートル)の岩石打割水路(がんせきうちわりすいろ)が完成したと伝えられています。

 また、喜三左衛門は水利土木に精通し、「兼久の大池築造」では設計監督者として才能を存分に発揮しましたが、寛政9年(1797)6月3日に54歳で死去しています。死去についてのいきさつはいまだにミステリーです。(詳しくは「劈巌透水のミステリー」をご覧ください)

劈巌透水路のある中山川渓谷の写真
劈巌透水路のある中山川渓谷
(劈巌透水路は写真の右側)

昔に堰があったと思われる所の写真
昔に堰があったと思われる所

 その後、出水の度に堰が破壊されたため、喜三左衛門の子孫で当時の中川村村長の越智茂登太(おちもとだ)らの主唱によって、明治19年(1886)に総工費600円(主なる地主の頼母子講による)で水路切り下げと隧道5間(約9メートル)の増築工事を行いました。

 さらに大正12年(1923)に総工費800円(県補助水利組合費を之に当てる)で大亀又蔵へ工事を依頼し、根本的な改修を試み井堰の補強と、岩石打割水路(がんせきうちわりすいろ)60間(約108メートル)を中山川左岸上流へ増築し、井堰を現在の位置に改めました。この工事以降、平成16年(2004)の度重なる集中豪雨で使用不能となるまでの80年余り水路の破壊はなく、来見本田の30町歩(30ha)を潤していました。

 今も隧道に残るノミの跡を見ると、越智喜三左衛門と越智茂登太の農民を思い、村を愛する熱情がひしひしと伝わってくるようです。

 水田開拓への強い思いと先人たちの汗と苦労が偲ばれるこの水路は、菊池寛の小説『恩讐の彼方に』で出てくる青の洞門(大分県中津市)になぞらえて、「伊予の青の洞門」と呼ばれています。

 丹原町内には、このほかにも、志川掘抜隧道(しかわほりぬきずいどう)、関屋の切抜隧道(すべて江戸時代に松山藩によって竣工)などがありますが、劈巌透水路志川堀抜隧道が西条市指定の史跡となっています。

劈巌透水碑の写真
劈巌透水碑

 劈巌透水碑は大正9年(1920)5月に来見耕作組合員により越智喜三左衛門の業績を後世に伝えるため、来見橋のたもとの西に建立されました。
 碑文は願成寺(丹原町北田野)住職の鳳快洲和尚によるものです。
 なぜ喜三左衛門が造った隧道のことを「劈巌透水」と呼ぶようになったか。
 それは、戒名から名前を取ったからです。戒名を「寿仙院劈巌透水居士」といいます。

越智茂登太(おち もとうだ)の写真
越智茂登太(おち もとうだ)
(1860-1939)
越智茂登太翁頌徳碑(丹原町来見)の写真
越智茂登太翁頌徳碑(丹原町来見)
昭和24年4月 中川村建立

 越智茂登太は明治26年(1893)に中川村村長となり、48年間もの間村長を務め、経済力の乏しかった中川村の復興に尽力しました。茂登太の数々の施策の眼目は、「村民の生活向上」と将来を見据えた「まちづくり」と「青少年の育成」でした。

 百年後の村財政を考え約1,000ヘクタールの村有林を造林、また産業を興すため周桑銀行を創立、住民生活に電灯をもたらした周桑電気株式会社の設立、かんがい用水路である「劈巌透水路」(へきがんとうすいろ)の大改修も行いました。

 中でも千羽ヶ獄(せんばがだけ)にあった千原鉱山の鉱害解決は、地方の小村が急速な近代化の悪影響に対峙した記録です。

 千原鉱山の煙害が問題になったのは明治37年(1904)でしたが、煙害の被害地域3ヶ村(桜樹村・中川村・石根村)が団結し、国、県、鉱山側とねばり強い交渉を続けた結果、大正3年(1914)千原鉱山は製錬を中止しました。

 同時期に別子銅山四坂島精錬所の煙害も発生し、周桑郡の14町村が煙害調査会(会長:一色耕平壬生川町長)を発足させ、茂登太も委員として奔走しました。

従六位勲六等

現代の石工(いしく)の道具の写真
現代の石工(いしく)の道具
(左からハビシャン・石頭・ハツリノミ2本・平ノミ・加工した平ノミ、セリ矢3個)

螺灯(らとう)の写真
螺灯(らとう)
別子銅山記念館蔵(新居浜市角野)

 写真の短いハツリノミは何年も使用しているものです。最初は倍ほどの長さがあったそうです。よく働いたノミほど短くなります。

 石頭の柄(え)が曲がっているのは、決して不良品ではありません。ほとんどの石工は木にねばりがあり、手にかかる負担が軽減される曲った柄(グミの木など)に付け替えるそうです。

 昔の石工は、毎朝、(ふいご)で炭をいこらせ、ノミの先を加工してから仕事をしていたようです。

 当時の坑内の灯りとしては、螺灯(らとう)や蝋燭(ろうそく)が使われていたようですが、ろうそくは高価であったため、ほとんどの場合、螺灯が使われていたようです。

(ふいご) 火力を強めるために用いる送風装置で、箱の中のピストンを動かして風を送る装置です。古代から金属の精錬や加工に使用されました。

螺灯(らとう)
 栄螺(サザエ)の殻に鯨油(げいゆ=くじらの油)や菜種油を入れ、灯芯に点火して使用するものです。新居浜市の別子銅山では、明治28年(1895)ごろまで螺灯が使われていました。また、明治28年(1895)以降は鉄製種油灯やブリキ製種油灯が使われるようになり、照明器具も時代と共に新しいものへと変化していきました。

中山川渓谷にある甌穴(おうけつ)の写真
中山川渓谷にある甌穴(おうけつ)
(甌穴の大きさ:直径約60センチ、深さ約1メートル)

 劈巌透水路の対岸の岩盤の中に丸い穴があります。この穴は、岩のくぼみや割れ目に小石が入りこみ、回転して深く削られて出来る甌穴(おうけつ)です。「ポットホール」とか「かめあな」ともいいます。

 このような甌穴になるまでには、いったい何年ぐらいかかるのでしょうか。きっと、気の遠くなるような年月が経っているのでしょうね。

 西条市ではこのほかにも瓶ケ森(1896.2m)の氷見二千石原にある「瓶壷」(かめつぼ)も甌穴のひとつです。

 県内では久万高原町(旧柳谷村)の八釜(やかま)の甌穴群(国指定の特別天然記念物)が有名です。

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