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水の歴史館 劈巌透水のミステリー

印刷用ページを表示する 掲載日:2015年1月15日更新

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劈巌透水のミステリー

 来見の大庄屋越智喜三左衛門は劈巌透水路を造る何年か前(年代不詳)に、来見本田のかんがい用水が不足するのを見かねて「来見堰」を築造しました。しかし、この堰は不完全で、度々水不足となり農民は困っていました。

その昔に来見堰のあった所(写真中央)の写真
その昔に来見堰のあった所(写真中央)

 喜三左衛門は不完全な堰を何とかしようと、松山藩へ再三にわたり修繕改築工事を願い出ましたが藩許が下りず、ついに安永9年(1780)自分の居宅や田畑を売り、その私財をもって隧道工事に取りかかりました。自身もノミを握り、鎚を振るい、固い岩盤を打ち砕き続けました。劈巌透水路のある来見橋の麓は、中央構造線の大断層のど真ん中で、工事は難航し、気の遠くなるような苦労を重ね、9年後の寛政元年(1789)に完成しました。

 また、同年の12月7日には松山藩による「兼久の大池」の築造工事が起工されることになり、喜三左衛門は松山領周布・桑村両郡代官の星野七郎正直の元で、設計監督者として卓越した水利土木工事の技術を生かし、着工後1年4ヶ月余りで掛井手(石積みの導水路2.86キロメートル)と道前第一の大池を完成させています。休む暇もなく働き続けた喜三左衛門は、大池完成から8年後の寛政9年(1797)6月3日に54歳で謎の死をとげています。

 兼久の大池築造にまつわる哀しい歴史として、古老の間に伝える口碑(こうひ)では、大池の落成式の祝いは丹原町北田野の願成寺(がんじょうじ)で盛大に執り行われ、喜三左衛門は帰途の石経河原(いしきょうがわら)で何者かによって刺殺されたという説があります。

願成寺(丹原町北田野)の写真
願成寺(丹原町北田野)

石経河原(関屋川に架かる石経橋付近)の写真
石経河原(関屋川に架かる石経橋付近)

 また、一説では落成式ではなく、代官所からの帰途、疲れを覚えたので、現在の丹原町田野小学校前の大松の下にあった茶屋で憩い、そのとき勧められたお茶に毒が入っていたため、帰宅すると同時に絶命したともいわれています。越智喜三左衛門の墓碑には寛政9年巳6月3日と没年が記されているため、兼久の大池完成から6年を経過していることになります。したがって、落成式の帰途の刺殺は誤って伝えられたものであり、越智家においては毒殺説が伝わっているといいます。

 田野小学校(丹原町田野上方)の写真
田野小学校(丹原町田野上方)

 原因は、水路構築の際の地所(じしょ=土地)の取り扱いに対する怨恨(えんこん)だともいい、また喜三左衛門の成功を妬(ねた)んでの所為(しょい=しわざ)ともいわれていますが、いずれにしても喜三左衛門の不屈の功績を讃え、死を惜しむ人々の哀情(あいじょう)に発した伝説であると思われます。喜三左衛門の村人を思う熱い心は、200年以上たった今でも村人の心の中に残っています。

(参考文献:周桑郡社会科郷土資料集 周桑郡地教委連絡協議会・周桑郡小中校長会)

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