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水の歴史館 大明神川の主な堰と大宮堰騒動 2.大宮堰騒動

ページID:0070380 更新日:2015年1月15日更新 印刷ページ表示

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大明神川の主な堰と大宮堰騒動

 2.大宮堰騒動

大宮堰より下流を望む

大宮堰より下流を望む

大宮堰の位置図

 大明神川にある六つの主な堰の最下部に当たる大宮堰のすぐ真下に、桑村・国安地区の取水口があります。そこで大正11(1922)年11月中旬に水争いがありました。大野・宮ノ内地区と桑村・国安地区の水争いです。大宮堰は大明神川の最後にある堰で、大野・宮ノ内地区ではその堰から1年中水を引いて家庭用水に使っていました。それ以外にも2軒の造り酒屋があり、早朝にこの水を汲んで酒の仕込み水に使うだけでなく、この水を利用して水車を廻し、醸造用の米をついていました。
 一方、桑村・国安地区ではこの堰から漏水しているところに取入口を設け、生活用水や製紙に使用していました。貴重な水であったため、桑村・国安地区ではトタン葺の番小屋に水番を付けていました。大野・宮ノ内地区の造り酒屋では、水が少なくなれば水車の力も弱くなり、米がつけなくなるため、造り酒屋の蔵主(くらぬし)が水を監視していました。
 大宮堰は大明神川の最後の堰であったため用水を全部取水しても良いことになっていました。漏らす水が一般化すると夏の稲の生育期にも影響するため大宮地区では団結していました。
 ある日、何のはずみか、桑村・国安地区の番小屋のトタン葺きの屋根に石が飛んできました。水番は急いで地区へ注進に帰り地区の人たちを集めました。すると、大野・宮ノ内地区もそれに負けじと人を集め、双方が川をはさんで対立することとなり、激しい石合戦(いしがっせん)(注1)へと発展していきました。
 双方の地区は焚き火をし、飛んでくる石から身を護るために酒屋より薦(こも)かぶり(注2)を運んで気勢を上げ、石合戦はさらに激しくなっていきました。また双方が半鐘(はんしょう)を鳴らして人を集め、怪我人も出る始末で、消防組(消防団)が出動し仲裁に入りましたが双方とも聞く耳を持たず、ついには松山より県警察部が出動し、抜刀(ばっとう)(注3)して双方をなだめ仲裁したため、石合戦も1日で終息しました。その後この調停は庄内村長村上盛一氏と国安村長越智通清氏双方の話し合いで合意が成立しました。その後、入会山関係の6ケ町村長(庄内・三芳・楠河・国安・吉岡・壬生川)が集まり、今後このような争いが起こらないよう仲良くやろうと協定書を調印し、以後紛争は起こらなくなったといいます。

(注1)二手に分かれ、石を投げ合って戦うこと。
(注2)水辺に生えるイネ科の多年草マコモの古名で、それを粗く編んでつくったむしろをいう。薦かぶりは薦で包んだ4斗(約72リットル)入りの酒樽(さかだる)のこと。
(注3)刀を鞘(鞘)から抜くこと。また、その刀。

(文章)『周桑農協だより』昭和59年10月号 我が郷土(10)より一部引用

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