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水の歴史館 大谷池築造計画からの道のり 2.大谷池築造の気運

ページID:0070385 更新日:2015年1月15日更新 印刷ページ表示

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大谷池築造計画からの道のり

2.大谷池築造の気運

 明治30年(1897)柴工堰堤(しばこうえんてい)(注1)工法という新しい技術が開発され、待望の新池築造の気運が高まりました。
 第二区(大字南川)の管理者(総代)であり、小松村助役の村上善助は、愛媛県の武田技手(ぎて)(注2)に大谷池築造の設計調査を依頼しました。武田技手の設計は、これまで最も危惧(きぐ)されていた堰堤の強度が、南川地区住民の期待に添えるもので、第二区所有林の松立木(まつたちき)を輪伐(りんばつ)(注3)して、池の新築費に充てることにしていました。

(注1)柴工堰堤・・・山野に密生する、多くはツツジ科の雑木を使用した堰堤。
(注2)技手・・・官庁などで、技師の下に属する技術者。旧制の官庁で、技師の下に属した判任官、または判任官待遇の技術間。「ぎて」、「ぎてー」、「ぎしゅ」ともよばれる。
(注3)輪伐・・・森林を区切って、一区画ずつ順に伐採(ばっさい)すること。

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