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ふれてみると暖かさを感じる和紙製品のいろいろ
楮(こうぞ) |
三椏(みつまた) |
伊予の和紙については、『延喜式』に温泉郡橘郷、風早郡粟井郷・喜多郡久米郷・新谷郷に紙が生産されていたことが記されており、中世の古文書にも伊予産の奉書紙が使用されています。
戦国の末期の天正(てんしょう)時代(1573-15092)に、宇和郡野村の兵頭太郎右衛門は、主家西園寺公広が長曽我部氏に滅ぼされた後、出家して仙貨居士と称し仙貨紙(せんかし)を考案しました。それは、楮(こうぞ)にトロロアオイ〔アオイ科の植物で、別名をハナオクラともいい、和紙を漉くときの製紙粘剤に使われる〕の練り液を加えて作った2枚の生紙をホゼ藷〔ほぜいも=彼岸花(ひがんばな)〕から作った糊(のり)ではり合わせた厚紙でした。堅牢(けんろう=しっかりしていて丈夫なさま)で良質なために、帳簿・経文(きょうもん=仏教の経典。また、その文章)・折本・合羽(かっぱ)・包紙などに重用(ちょうよう)され、野村(現西予市)を中心に北宇和郡。喜多郡、土佐高岡郡の山間部にも普及していきました。
宇和島藩は、元禄元年(1688)にこれを藩の専売品としました。大洲藩では、元禄年間に越前の人宗昌が奉書紙(ほうしょし)の製法を伝えるとともに、土佐から楮苗を移入(いにゅう=他から持ち込む)したり、石見国(いわみのくに=かっての日本の地方行政区分だった国のひとつで、山陰道に位置する。現在の島根県の西部)から半紙の技術を導入したりして、享保年間(1716-1736)に大洲の紙は日本一といわれるようになり、明和5年(1768)に和紙製造を藩の専売事業としました。
小松藩 会所日記 |
小松藩 会所日記 |
小松藩 会所日記 |
御巡見使様小松領御案内手控(写) |
小松町妙口の妙谷川両岸の製紙工場の略図(大正初期)大平文八調査(石土神社史より)
小松町 妙口地区 |
仙貨紙(小松藩札) |
小松藩の製紙業は、第二代一柳直治(在位1645-1705)の時、大洲領内から小西伝兵衛〔享保20年(1735)没〕を小松へ招致して、御用紙屋に取り立てました。その後、紙漉(かみすき)工場の土地を与え、美濃紙(みのし=岐阜県産の和紙の総称。奈良時代から優良品として知られ、書院紙が有名)・普通判紙・半切・仙貨紙(せんかし=藩札用に使用)・丈長〔たけなが=丈長奉書の略で、質が厚くて糊(のり)けがなく、普通より長い奉書紙。(縦約48センチ、横約70センチ)のもの。〕など藩の御用紙(江戸時代に幕府に納めた特漉きの紙。また、大名などに納めた紙)を製造させていました。特に小松藩での製紙業は文政年間(1818-1830)が最盛期のようです。
原料の楮(こうぞ)は、領内の千足山村(現西条市小松町石鎚)や、松山領の千原・鞍瀬(現西条市丹原町千原・鞍瀬)方面から、糊空木〔ノリウツギ=樹皮から和紙の材料の糊(のり)を採取したことからこの名前がついたといわれ、アジサイの仲間の落葉低木で別名をサビタ といいます。〕は、西条領の川来須(かわぐるす=地名)や、土佐山(現高知市)から調達したらしいといわれています。
『小松藩会所日記』には、文化14年(1817)4月9日に石見国から楮(こうぞ)2,000貫〔7,500kg〕を、また文政11年(1828)には楮7,000貫(26,250kg)を購入した記録があります。これは紙の品質や、大坂(おおざか=江戸時代の呼び名)の取引先との慣行に関係があるのではないかといわれています。
小松藩も紙を専売品として、藩船の泰丸、静丸や民間の広江・北条・壬生川・宮ノ下・船屋・桜井・波止浜などの商船に委託して大坂に送り、代金は藩の財源の一部になりました。
紙漉工場については、天保9年(1838)の『御巡見使様小松領御案内手控』に、「妙口村にて紙漉有之事。天明度(1781-1789)始まり候事なり」とあります。
妙口村では藩政時代から紙漉きが盛んに行われていました。妙谷川(みょうのたにがわ)の両岸(石土神社から国道11号までの両岸)には、紙漉を営む家が21軒ほどあり、当時は、川の中には紙の原料を洗う人、家の前の広場には、白い紙干し板が立ち並び活気に満ち溢れていたといいます。
大正3年には、製紙工場が9軒に半減しましたが、伝統の伊予和紙は継続して作られていました。製品の和紙は、荷車で壬生川港へ運び船で大阪市場へ送り出され、市場においては「ばしょう」という銘柄の品質が良く高値で取引きされたといいます。しかし、大阪方面では、合理化が進み太刀打ちできず、昭和13年(1938)頃に紙漉きは姿を消してしまいました。
神拝地区遠景
写真提供:加藤正典氏
仙貨紙(西条藩札) |
『西條誌』神拝村紙方役所付近の絵図 |
石鎚山麓の山村(石鎚)では多くの楮を産し、それをさらす加茂川の伏流水や自噴する豊富な水に恵まれていました。西条藩の神拝(かんばい)村では、寛永・正保年間(1624-1648)の頃から和紙の製造が行われていました。18世紀末の天明・寛政年間(1781-1801)ごろに西条奉書は「伊予柾」(いよまさ)と呼ばれ、錦絵(にしきえ=浮世絵とも呼ばれ江戸時代の風俗、特に遊里・遊女・俳優などを描いた絵)の版画に最適の紙として、江戸や大坂で名声が高かったといわれています。
通説では、西条藩の和紙の専売制の移行時期については、文政年間(1818-1830)となっていますが、西条市在住の加藤正典氏が平成18年2月に『荒川山村文書』(西条神社の葵文庫蔵)を発見し、西条藩に楮座が設置されたのは寛政3年(1791)であることが分かりました。
西条藩では、神拝に紙役所(12坪=約40u)を置き、15坪(約50u)と6坪(約20u)の紙蔵(かみぐら)、また36坪(119u)と30坪(約99u)の楮蔵(こうぞぐら)を建て、紙漉職人も一定の地域に住むよう統制しました。『西條誌』によると神拝には、天保(てんぽう)年間(1830-1844)に18軒の紙漉長屋の建物があって、盛んに製紙業が営まれていました。職人は一棟に2株、3株ずつ住居して、合計36株に限定されていました。
株は、酒造株と同様に特殊権益を意味するもので、藩の役所から楮皮(ちょうひ=コウゾの木の皮)の交付を受けたり、資金の借り受けをしたりして紙漉に専念し、製品の納入も紙方役人の指図(さしず)に従いました。生産された奉書紙は、西条藩の御用船で大坂へ運送し、大坂蔵屋敷に収納しておいて、相場のよい時期を見計らって業者に売ったり、紙商人を通じ、江戸へ運んだりしていました。なお藩の専売事業のほかに、百姓が作間?(かせぎ=農閑期)に副業で紙を漉く者もあると記されています。
西條市古屋敷で最後まで残っていた2軒の手漉き和紙の業者も、昭和13年(1938)6月に廃業をしています。その後伊予製紙株式会社(機械漉き製紙)が操業を再開しましたが、平成13年2月で廃業し、旧西條市での紙漉きの歴史は途絶えたままとなっているため、西条奉書の復活を望みたいところです。
和紙の里 国安地区
和紙の里 石田地区(ひょうたん池)
写真提供:道前平野土地改良区
柳瀬四郎著『越前奉書伊予奉書檀紙考』(昭和40年刊)に「周桑は、愛媛県で唯一の米の余る郡である。紙郷(紙漉村)は、水田が乏しく農耕に不適当な山間僻地(へきち=都会から遠く離れた土地)で、水と原料の豊富な所に発展するのが常識ですが、この既成概念を破って、広々として実り豊かな周桑平野の平坦部、しかも、燧灘(ひうちなだ)さえ望める国安と石田に紙漉村が成立していることは、ひとつの驚きである」と述べられています。
全国の和紙の生産地の多くが、山間僻地(へきち)の地にあるのとは異なり、平坦部中央にあることと、愛媛県のほかの和紙生産地が、藩の専売制の庇護(ひご)の下に営業したのとも異なり、幕末の創業ですが、それぞれその村の先覚者が操業を始め、やがて紙漉き村へ発展し、紙漉きの能率向上や、安い原料と豊富な労働力をいかし、技術革新によるコスト削減をおこない、伊予奉書の名で全国に販路を拡大していきました。昭和の一時期には、奉書の本場である越前奉書(越前=旧国名で、現在の福井県北部にあたる)をしのぎ、全国需要の9割を供給したことに特色があります。
和紙の研究者も驚くように、穀倉地帯の真ん中に紙漉村が出現した理由はいったい何であったのでしょうか。地理的条件もさることながら、収入の少ない農家が多い中にあって、現状打開の道を探り、日夜、沈思黙考(ちんしもっこう=沈黙して深く考えること)を重ね、 田中佐平、森田重吉の二人は和紙製造を創業しています。この両先覚者たちの情熱と、その成功に導かれた村民のバイタリティーと、積極性が根本原因であると考えられます。
外から見ると、一見、穀倉地帯の豊かそうな村に見えても、村の構造を分析するとき、両村とも米麦中心で、収入の少ない農村であったことがまず共通している点です。
国安村については、文政8年(1825)『伊予国桑村郡村々様子大概書』によると、石高(こくだか=収穫した米穀の数量)1,104石(約199トン)、田50町7反(約50.7ha)、畑46町8反(約46.8ha)、戸数194戸、人口980人の村です。したがって、1戸当たり田2.5反(約0.25ha)、畑2.4反(約0.24ha)、計1戸当たり平均の農地が約5反(約0.5ha)で、しかも田畑半々の農家であるため、生計を立てていくにはかなり厳しい農村であったことがうかがえます。一方、石田村についても同じような状況であったといえます。
第2の原因は、ハングリー精神によって培われた積極的な村民性を挙げることができます。現在においても、両地域とも京阪神地方などへ出て、商業などで成功した人が多いことはこれによるものと考えられます。
地理的条件としては、大明神川・中山川の伏流水・ひょうたん池の湧出と、和紙の乾燥に適した瀬戸内式気候特有の温暖で晴天日数が多く、少雨の地域であること、また、手近に求められる原料や豊かな労力なども挙げられます。
明治20年(1887)には、石田の十河猪助による稲藁(わら)を原料にした安くて良質の「藁奉書」(わらほうしょ)が完成させました。化学薬品の使用によって色の白い美しい「伊予奉書」として有名になりました。しかし洋紙の出現や景気の動向、また時代の流れとともに、盛衰(せいすい=物事が盛んになったり衰えたりすること)を繰り返していました。そこで佐平は、明治35年(1902)生産額の激減策として、郡製紙同業組合を設立しましたが、昭和4年(1929)ニューヨークのウォール街で起きた株価の大暴落が世界大恐慌を引き起こし、昭和5年(1930)には日本にも飛び火し大恐慌となり、そのあおりを受けた結果、両地区とも一斉休業に追い込まれ、800人の失業者を出す結果となりました。
田中佐平翁頌徳碑(国安公民館前) |
田中佐平功勞賞授譽證 |
天保年間(1830-1844)田中佐平は、国安村は米麦中心の産業しかないために、収入の少ない農家が多く、生活にも困っているのを憂い、西条藩の神拝や小松藩の妙口で豊富な伏流水を利用して、紙漉で収益を上げている実態を見て、救村打開の方策は、「大明神川の伏流水を活用して抄紙業を興すこと以外に道はない」と考えました。
彼は協力者を得るために、村内の有力者にいろいろと当たってみましたが、当時の世相は、農業を尊び商工業につくことを軽んじる封建的な風潮(ふうちょう=傾向・時流)が非常に強く、同調しないばかりか、佐平の考えは、「投機的で余りにも危険な考えだ」と罵倒(ばとう)する者さえいるありさまでした。
彼はこれに屈せず一層意欲を燃やし、遂に天保2年(1831)、私財を投じ、素志(そし=以前からもっている志)に基づき、自ら単独で抄紙業(しょうしぎょう)を創業しました。それからというものは昼夜に渡り、従業員とともに研究努力を重ね、ようやく奉書づくりを成功させ、収益をあげることがでるようになりました。これを見た村民の中には、佐平の資金援助と技術指導を得て、紙漉を始めた者が収益を上げると、紙漉業を始めるものが次第に増加し、一時は100戸以上にもなり、村の重要産業にまで発展しました。
後には村内のみならず、近くの村や隣町へも波及(はきゅう=影響)するありさまでした。しかし、この企業には盛衰がつきもので、佐平は苦難にあう度に、私財をなげうって和紙の村の危機を乗り越えました。
石田村の和紙の製造は、国安村より約30年遅れて、文久2年(1862)森田重吉によって創業されました。彼は天保8年(1837)3月15日に石田村の貧しい農家に生まれ、他家に奉公に出た後、近隣産の紙の行商をするようになりました。その商品は紙質や仕上げなどのすべての面で粗悪であったため、このままではやがて販路を失い、業として成り立っていかないことに気付き、行商中も常によい紙の製造法を求め続けていましたが、ついに文久2年(1862)に石田地区に湧出する中山川の伏流水を活用して自分で製紙業を始めたのです。彼は行商の際に各地で見聞した新しい技法を取り入れ、研究改良に専念した結果、徐々に諸国の紙問屋に優秀品であることが認められるようになり、販路が徐々に広がっていきました。彼のカネマス印の奉書は信用され、名声が上がり財を築くことが出来ました。
また、重吉は求村策として、村人に資本を援助し、技術指導も行い、村民に抄紙業を奨め努力した結果、村の経済は豊かになり、天下の紙漉村にまで発展しました。
森田重吉(1837-1909.4.11) |
森田重吉舒功碑(石田 大智寺) |