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水の歴史館 泉掘り(枠組井戸)とポンプ場の歴史  5.近代のかんがい用井戸とポンプ

印刷用ページを表示する 掲載日:2017年1月13日更新

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泉掘り(枠組井戸)とポンプ場の歴史

5.近代のかんがい用井戸とポンプ

 「泉掘り」(枠組井戸)を利用したポンプ取水は、いつ頃から始まったのでしょうか。

【栗田】 周桑地域(平野)で、この方式の井戸を利用したポンプ取水を導入したのは、大正3年(1914)に丹原町下町の「嚆筒(らんとう)ポンプ組合」が最初で、続いて同年に東予市周布の「幸木ポンプ組合」、また、大正4年(1915)には小松町北川の「北川ポンプ組合」が導入しています。
 このような方式のポンプ取水は大正3年(1914)~大正13年(1924)頃にかけて、大変なスピードでこの地域に普及していきました。
 これにより農民はかんがい用水確保の重労働から解放されたわけで、農業における画期的な出来事でした。
 しかし、その後、井戸の掘削技術やポンプの性能が進歩したために、昭和30年代(1955-1964)以降、新規の「泉掘り」(枠組井戸)は造られていません。

5.近代のかんがい用井戸とポンプの写真1枚目(嚆筒記念碑前にて)
嚆筒記念碑前にて

5.近代のかんがい用井戸とポンプの写真2枚目

 地主、小作、自作農という農業生産の根幹をなす形態のある時代に、ポンプ場建設がどのようにして進められたのでしょうか。

【栗田】 ポンプ場が建設された当時は、昔から続く、地主、小作、自作農という農業生産の形態があり、お互いに利害得失が相反していましたが、それらを乗り越え、お互いが協議しながら、かんがい用水確保がはるかに便利になるというポンプ場を、主に自作農と小作が費用を負担して建設しました。
 しかし、周布地区ではポンプ場が完成した後も、天保時代(1830-1844)から続く与荷米(よないまい)の慣習が 残っていました。
 与荷米とは、旱魃(かんばつ)で日照りが続き、人工かんがいである「踏車」が使用され始め、それが5日間続くと、一番与荷といって地主は小作人に対して、年貢を減免する決まりがありましたが、この取り決めの率の多い少ないによってトラブルが多発していました。
 ポンプ場が完成した後、旱魃時の費用保障(与荷米)には問題があるということで、昭和初期に数カ所のポンプ組合で争議となり、調停の結果、ポンプ設備の一切を地主側で買い上げ、代わりに与荷米の慣行を廃止し、地主と小作でポンプ揚水にかかる経費を、折半にすることで多くは解決しました。
 戦後(第二次世界大戦後)になって、GHQの指令で実施された農地改革(農地解放)で地主制度はなくなりました。


 周桑地域(平野)では枠組井戸のことを「泉掘り」と呼んでいますが、名前の由来はどこからきているのでしょうか。

【栗田】 「泉掘り」は「いずん掘り」とも呼ばれます。語源は定かではありませんが、「泉掘り」の井戸は、泉があった所に造られています。
 当地方では、泉から水が湧き出している様子を、水が「いずんでいる」といいます。このことから、泉のあったところを深く掘り下げて井戸を造ったことから、このような枠組井戸のことを「泉掘り」と呼ぶようになったと思われます。

(11)「いずん掘り」(枠組井戸)六道ポンプ場の写真
(11)「いずん掘り」(枠組井戸)
六道ポンプ場


(13)陸上ポンプ 徳重ポンプ場(小松町北川)の写真
(13)陸上ポンプ
徳重ポンプ場(小松町北川)

 現在は、昔のような陸上ポンプは使われていないのでしょうか。

【栗田】 現在でも昔のような陸上ポンプを使っているところもあります。しかし、最近では、異常気象などのせいで、昔に比べると地下水位の下がることが多くなっており、吸い込み揚程(ポンプ位置から井戸の水面までの高さ)の低い陸上ポンプでは、安定的な用水確保が難しくなってきたため、姿を消しつつあります。
 今では、ボーリングマシン(地中に細長い穴を掘るのに用いる掘削機械。鋼に吊るしたビットを落下させ、衝撃を与えて掘るパーカッション方式や、鋼管の先端にダイヤモンドなどをつけたものを回転させて掘るロータリー方式のもの)で井戸を掘削し、地中深くの帯水層(たいすいそう:礫や砂からなる透水層で、地下水を含んでいる地層)に水中ポンプ(モーターとポンプが一体化したもので、大気圧に関係なく水を汲み上げることが出来るもの)を取り付けて地下水を汲み上げる方法に更新されつつあります。


 最初に陸上ポンプが導入された頃のかんがい用井戸は、どんな構造だったのでしょうか。

【栗田】 その頃のかんがい用井戸は「泉掘り」(枠組井戸)と呼ばれるもので、かんがい用水専用に造られた井戸です。
 この井戸は井戸枠に生松を使うのが特徴で、部品は松幹丸太(まつみきまるた)・松柱(まつばしら)・松杭(まつぐい)で構成されています。
 取水源上部(地上に近いところ)に5m×8m角を単位とした松幹丸太と松柱で枠状に組みます。
 さらに枠組の外側に隙間を作らないよう、細めの松杭を縦に並べていきます。この松杭はスクリーン(小石や砂が井戸枠の中に入ってこないように防ぐ網)代わりとなります。
 枠が完成すると、内側に梁(はり:支える横木)で支え、崩壊を防ぎます。
 最初にできた枠の下の内側に、同じ方法で小さい角の枠を造ります。
 この作業を繰り返しながら、上から下へと階段状に掘り進んでいきます。すなわち、底にいくほど狭い枠組となります。

(11)露出した生松丸太と陸上ポンプ吸込み管(右上)の写真
(11)露出した生松丸太と陸上ポンプ吸込み管(右上)
六道ポンプ場

5.近代のかんがい用井戸とポンプの写真3枚目

 水の中で使用する井戸の枠組に、なぜ腐りやすい松(黒松)の木を使ったのでしょうか。

【栗田】 第一に、松には松ヤニが含まれているため、ほかの木に比べて腐りにくいということがいえます。
 第二に、ずっと水の中に浸かっていれば、気が遠くなるほどの期間、腐らず使用に耐えることが出来ます。その証拠に、90年余り経過している「泉掘り」(枠組井戸)でも、ずっと水中に浸かっている生松丸太は当時の形を保ったままです。
 そして第三に、黒松は成長が早く、安価であったということがいえます。ただし、生松丸太といえども、渇水で度々露出し、空気に触れると腐食が進行するため、完璧な材料とはいえませんが、きわめて良い材料で、当時は多くの「泉掘り」(枠組井戸)で生松丸太が使われました。


 では、建設機械の発たちしてない時代に、どのようにしてかんがい用井戸を造ったのですか。

【栗田】 西条市周布の「幸木(さいのき)ポンプ組合」の場合、当時は現在のような建設機械がなく、すべての作業が人力(スコップ・クワ・ツルハシ・モッコなど)で行われました。枠組の内側の部分の掘り出された土砂は約10万トンに近いほどの量だったといわれています。
 この工事で掘り出された土砂は、幸木泉の北側に積み上げられ、山のようになりました。この山のことを地元の人たちは「五瀬山」(ごぜやま:人工の山)と呼び、そこには桜の木が植えられ、花見の名所となっていましたが、昭和5年(1930)頃、「周布-北条街道」の道路工事にこの山の土砂が使われ、平地となった跡地は栗田鋳造所の工場地や幸木集会所の敷地などに姿を変えました。
 元、桜のあった所には、新しい桜が植えられ、今でも地域住民によって大切に守られています。 桜の時期になると、花見を楽しむ家族連れが大勢訪れ、賑わいをみせますが、時代の流れとともに、ここに「五瀬山」があったことを知る人が少なくなりました。

5.近代のかんがい用井戸とポンプの写真4枚目

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