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泉掘り(枠組井戸)とポンプ場の歴史
では、河川や泉、ため池などからかんがい用水が取水できなかったときは、どのようにしてかんがい用水を確保したのですか。 【栗田】 一枚ごとの田んぼの隅(すみ)に人力で掘井戸(ほりいど:内壁に人の頭の大きさほどの石で石積みを行い、応力が井戸枠に均等にかかるよう円柱状に仕上げ、地上から地底に向かって掘り進む工法で造る井戸)を造り、「跳ね釣瓶」(はねつるべ)で水を汲み上げていました。 |
井戸は、どこを掘っても水が出るというものではありませんが、そのような場合、どうやって稲を栽培したのでしょうか。
【栗田】 水まわりが悪く、井戸を掘っても水の出ないところでは、やむを得ず畑にして、陸穂(おかぼ・りくほ:水を張っていない田畑で栽培される稲)を栽培していたところがありましたが、今ではこの地域で栽培しているところはありません。
陸稲は水稲に比べると収穫量はやや少ないですが、耐干性(たいかんせい)、いもち病抵抗性、直播(じかまき)適応性などのすぐれた面を持っています。現在、栽培されている地域は、北関東および南九州の一部に限られています。
また、小松や丹原地区などでは、水稲で作付けできない田んぼのことを畑田(はただ)とよび、今でも田地(でんじ:田となっている土地)の呼び名として残っています。
(文章)ホームページ「みんなの農業広場」「農作業便利帖・陸稲栽培」より一部引用
URL:http://www.jeinou.com/benri/rice/2008/08/130918.html
跳ね釣瓶(左上) 周敷(しゅう)神社(右) 周布(東予地区)
資料:日野和煦(にこてる)の西條誌より 天保13年(1842)
(天保13年には現在の周敷神社の南側に跳ね釣瓶があった)
「跳ね釣瓶」は、いつ頃導入され、いつ頃姿を消したのでしょうか。
【栗田】 人間が自らの生活及び家畜、農作物に水を供給するために造り出した最も古い水汲み用具は、「跳ね釣瓶」だといわれています。紀元前1,500年、今から3,500年前にエジプト地方で使われだしたといわれています。
日本にその技術がいつ頃入ってきたかは定かでありませんが、かなり古い時代から使われていたものと思われます。 この地域において、「跳ね釣瓶」が完全に姿を消したのは昭和20年代(1945-1954)だと思います。
東予郷土館にて |
では、「踏車」(ふみぐるま)はいつ頃導入され、いつ頃姿を消したのでしょうか。 【栗田】 踏車は小型の水車(すいしゃ)のような形をしています。人が板羽根(いたばね)の上に乗り、板羽根の角を踏むことで羽根車を回転させ、水を高いところへ押し上げるかんがい用具です。 |