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中山川は道前平野を代表する河川で、東西に貫流しています。石鎚山系の青滝山(あおたきさん)の北方を源流として国道11号線に沿い、千原(ちはら)を経て鞍瀬川(くらせがわ)と合流します。鞍瀬川は堂ヶ森に発し、鞍瀬渓谷の絶景となって落合に出る最大の支流です。落合からは、また、中山川渓谷を形成しながら里に出てきたところで、天ヶ峠(てんがとう)に発する志河川(しこがわ)と、北方高縄山系より表流水のない関屋川(せきやがわ)を入れ、安井谷川・妙谷川(みょうのたにがわ)・都谷川(みやこたにがわ)と合流し、東予地区との境界を形成しながら東流していきます。さらに下流域では、大日川が氷見石岡新開(ひみいわおかしんかい)で合流し、禎瑞(ていずい)に至って燧灘(ひうちなだ)に注いでいます。流路延長は約23km、鞍瀬川や関屋川など21本の支流があり、流域面積は約196km2あります。
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中山川は、平素は沃野(よくや)を潤して豊かな穀倉地帯を育んでいましたが、長雨や大きな雨を伴った台風の折には、暴れ川となって、大きな被害を与えることが多かったといいます。
丹原地区では、元和2年(1616)の中山川の決壊で民家・田野上方の寺院(道満寺)の流失、川根谷の出水で高松川の流路変更、寛文10年(1670)関屋川の出水で立石の元より切れ込み水路の変更、貞享2年~3年(1685~1686)の洪水で長野村は壊滅的な被害を受けたため、翌年長野を現在の地に移転しています。また、安政9年~寛永元年(1780~1789)には、大庄屋の越智喜三左衛門が、来見村農民のために自らの資材を投じ、中山川左岸の岩盤に、ノミと鎚で9年もの歳月をかけて劈巌透水路を完成させています。
小松地区では、新屋敷の白坪に天平年中(729~748)に開創された金剛宝寺(現在の四国霊場62番札所宝寿寺)は、たびたび洪水の被害を受けたため、天養2年(1145)に伊予小松駅西側へ再建されています。(宝寿寺伝)
東予地区では大正元年(1912)悪水樋(あくすび)の南側、角部(つのべ)土手が約100メートルにわたって決壊しました。氾濫した水は蛭子(西条地区)や今在家へ流れ込み、広江川の今在家側土手や海岸の堤防を押し流しました。
今在家では、ほとんどの家が床上浸水し、低い家では屋根を破って助けを求めた者もいたといいます。
江戸時代のかんがいの苦労は「西条誌」に詳しい記述があります。平素は中山川が伏流水となっているので河川から直接用水を引くのは難しく、昔中山川が乱流移動した旧河川跡である窪地に、増水したものを泉としてかんがい用水に使っていました。旱魃(かんばつ)の際にはそこから水を取るのに大変な苦労をしていたようです。
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踏車(ふみぐるま) 水車の一種で踏んで車を回転させ板羽根によって川や池から水を田畑に汲み上げたり排水などの仕事をする。 (写真、資料:東予郷土館) |
丹原地区や小松地区、東予地区の住民は、谷川の表流水や河川の伏流水を生活用水とし、またかんがい用水としても古くから利用してきました。
安定的なかんがい用水を確保するために、江戸時代中期ごろからため池の築造がはじまり、大正時代まで続いています。現在でも、丹原地区55ヶ所、小松地区29ヶ所、東予地区39ヶ所、西条地区70ヶ所のため池が活躍をしています。
ほとんどのため池が、現在も道前平野土地改良区の「かんがい用水の調整池」として使われています。
ため池の数がこれだけ現存するということは、水を確保するために腐心を重ねてきた先人たちの遺産であり、これだけたくさんの取水施設が残されているということは、この地域でかんがい用水を確保することがいかに困難であったかということの証しでもあります。
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大正期から昭和初期にかけて、動力ポンプ導入による地下水の利用が盛んに行われるようになり、旱魃(かんばつ)時の碓舂〔(たいしょう)=踏車(ふみぐるま)〕や八桔槹(はねつるべ)に代表される苦汁に満ちた用水労働から解放されたということは画期的なことでした。
この地域で、最初に地下水の利用を企画して動力(蒸気)ポンプを導入したのは、大正3年(1914)丹原町「下町ポンプ組合」であり、続いて同年に周布村(東予地区)「幸木(さいのき)ポンプ組合」、も導入しています。大正4年(1915)には北川村(小松地区)「北川ポンプ組合」、周布村(東予地区)「茶城ポンプ組合」「六道ポンプ組合」、田野村(丹原地区)光下田(こうげだ)ポンプ組合が導入をしています。
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小松町内で特に水掛りの悪かった北川地区では、平素は妙谷川の一番堰からの用水や、都谷の池ノ谷池(奥池)、新池(昭和45年コカコーラ社へ売却)等からの用水に頼っていましたが、用水が不足してくると、田んぼの隅に掘ってある井戸から、碓舂〔(たいしょう)=踏車(ふみぐるま)〕や八桔槹(はねつるべ)で人工かんがいを行っていました。
特に旱天時(かんてんじ)の用水労働は過酷なもので、苦闘しながら稲を育てていました。それを見かねた地主の井上光太(みつだ)(1878~1948)は、明治36年(1903)に大阪市南区天王寺で開催された「第5回内国勧業博覧会」に動力ポンプが出展されるということを知り、農業館・機械館等の視察に出向きました。そこで感じたことは、このまま旧態依然の農業を続けていれば、いつまでたっても苦汁に満ちた用水労働から解放はされず、早急に農業の近代化(機械化)を図らなければならないということでした。
農業の近代化を図るためには、動力ポンプの導入が必要不可欠であると農民に説明して回りましたが、動力ポンプを導入するには多額の費用がかかり、失敗した時の不安もあってか農民組合が反対し、なかなか工事に着手することが出来ませんでした。
そこで、大正4年(1915)井上光太は自分の田畑を抵当に入れ、その資金で中泉(なかいずみ)ポンプ場へ木炭使用の焼玉エンジンとポンプ(ドイツ製)を導入し、北川ポンプ組合を設立しました。続いて翌年にも丸渕泉(丸渕ポンプ場)に動力ポンプを導入しています。それ以降、北川地区の農民はかんがい期の用水労働から解放されたと伝えられています。
その後、道前地域でも次々とポンプ組合が結成され、蒸気から石油発動機、昭和の初めには電化へと移行していきました。また、現在のポンプ設備は陸上ポンプから水中ポンプへと更新が進んでいます。
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中山川の上流部には昔より多くの取水堰があり、道前平野の穀倉地帯のかんがい用水として使用してきました。その中でも釜之口堰(かまのくちぜき)(丹原地区)や大頭堰(おおとぜき)(小松地区)はもっとも歴史が古く、既に戦国時代には築造されていたと考えられています。この堰の上流及び下流にも数か所の堰がありますが、洪水の度ごとに起こる被害の修復と、それに伴う下流堰との間に起こる水量問題から水争いが絶え間なかったといわれています。特に釜之口堰の水利慣行にまつわる水争いが大規模なものとして記録に残されています。
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昭和初期までの農業用水利といえば、井堰による川水の導入か、ため池による水の利用、又は数十ヶ所のポンプ組合による取水が中心でした。愛媛県では大きな河川を持たず、また瀬戸内式気候特有の寡雨地帯でもあるため、畑地かんがい施設までは手が及んでいませんでした。
年々農業用水に不足を来たしていた中で、戦後(昭和20年代)の食糧難もあって、恒久的な用水対策が望まれていました。さらに工業用水の確保というねらいもあって、河川の流況を改善し、全面的に流れを利用しようとする総合開発計画が決定されました。
昭和27年には中山川、石手川の開発による農業用水確保計画を一歩進めて、高知県の仁淀川水系の割石川に「面河ダム」を建設し、発電設備と共に農・工業用水を確保する「道前道後水利開発事業」が策定されました。
この計画に従って、昭和32年に着工し、10年後に完成しました。また、これに伴う県営事業は、道前地区は昭和44年に完成しています。これにより旱魃(かんばつ)の被害から開放され、経営が安定し、飛躍的に発展しました。
毎年、6月6日~10月6日までのかんがい期間には、面河ダム(久万高原町)から中山川(丹原町千原)へかんがい用水が補給されています。
ダムの完成後40年余りを経過した今日、道前地域では新しい水需要への対応が必要になってきました。そこで農業経営の安定と合理化を図るための水田裏作用水や、新規受益地(三芳地区)へのかんがい用水が必要となり、中山川水系志河川に平成19年10月31日「志河川ダム」が完成しました。
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西南日本の中央構造線は、長野県諏訪湖付近から九州熊本県八代付近まで続く日本最大の断層です。
この断層が丹原町湯谷口できれいに露出しています。ここでは下流側にある約7千万年昔に海の底に堆積して出来た和泉層群の岩が上流側の1億年昔に地下深所で変成岩になった結晶片岩の上に乗り上がった形の断層です。ここの断層の走行はN80°WNへ40°傾斜しています。この断層の間に安山岩が貫入しています。この安山岩は石鎚山の火山活動の時に出来たものです。
この断層は、2~3千万年昔に活動したものです。本露頭は、結晶片岩の上に和泉層群が乗っていますから、素直に解釈すれば正断層と判断されますが、西の砥部(砥部町)や犬寄(伊予市)など、また東の西条市市之川(いちのかわ)での事実から、この間にある湯谷口も「衝上断層」と考えられています。
衝上断層(丹原町湯谷口)