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水の歴史館 大谷池築造計画からの道のり  はじめに

ページID:0070382 更新日:2015年1月15日更新 印刷ページ表示

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大谷池築造計画からの道のり

はじめに

 宝暦8年(1758)、南川村南山山麓の字大谷に奥池(注1)が築かれ、寛政3年(1791)には前池(注2)が築かれました。(『会所日記』)しかし、奥池は明治40年頃の洪水で欠損流失し、付近は荒地となっていました。前池には土砂が堆積し、わずかに5~6反歩(4,959~5,950平方メートル)の田んぼしか潤すことができない状態となっていました。そのため、南川地区では「月夜でも田んぼが焼ける」と言われるほどかんがい用水の乏しいところでした。農民たちは田んぼの片隅に井戸を掘り、「跳ね釣瓶」(はねつるべ)で灌水(かんすい)するという有様でした。それらを解消するために、明治31年大谷池の築造計画が立てられましたが、下流地域の住民らの猛反対で中止となりました。
 11年後、国の食糧増産政策の一環として耕地整理法が制定されたことで、耕地整理への認識が高まり、大谷池の築造計画が再び動き出し、大正6年、当時県下で最大の大池が築造されました。その後、昭和21年の昭和南海地震により災害を受け、昭和22~25年まで災害復旧工事が行われました。それから49年間使用されていましたが、堰堤や樋の老朽化が進み、地元住民から改修を望む声が強くなり、平成12~19年度にかけて改修工事が行われました。

(注1)奥池・・・現在の堤心(堰堤の中心)から950mほど上流
(注2)前池・・・現在の堤心から150mほど上流で、大谷池のほぼ中央西側

前池(大谷池のほぼ中央西側にあった池)の写真
前池(大谷池のほぼ中央西側にあった池)

 奥池と前池、大谷池の位置図の写真
奥池と前池、大谷池の位置図

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