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大明神川は、高縄連山の東三方ヶ森の北東を源流として、東予地区の北部を東西に貫流している典型的な天井川です。国山でハナガナル川と合流した後、本谷温泉のある河之内、三芳を経て高須で燧灘にそそぐ流路8.65キロメートル、流域面積17.00平方キロメートルの河川です。
大明神川扇状地は、急な山間から急に平野に至るつなぎ目にできる半円錐形の堆積地域です。このような地形が出来る原因は、山地が急に平野に入り、山地より運搬されてきた土砂が渓谷の出口を扇の要として扇状堆積したためであるといわれています。瀬戸内海側が沈降して浸食力・運搬力が急激に増大し、河岸段丘(河川の流路に沿った階段状の地形)が出来ています。
大明神川の河岸段丘は、河之内の国山地区に端を発し、旦之上まで全長約4キロメートルの区間で形成されており、象ヶ森北部で4~5段の段丘が見られます。石積の石は50~60cmくらいのものから子どもの頭くらいのものまで、さまざまな丸みを帯びた石がゴロゴロとしかも丹念に積み上げられており、等高線に沿った棚田群が整然と広がっています。
大明神川の河岸段丘(河之内地区)
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棚田の丸い石と色々なものが織り成す造形美(河之内地区)
大明神川も沈降の時代には相当な水量があったと考えられますが、現在平時には中流域から下流にかけては表流水が見られない天井川となっています。海抜10~15メートル付近には自然湧出泉が各所にあり、上高田や三芳の「つく池」、楠の「臼池」、新市の「古池」などの泉が今もかんがい用水に使われています。
この扇状地は、新町から明理川の方面や大野・宮之内・三芳・高須筋・福成寺・楠・楠浜筋(東予地区の南側)へと広がっています。これは、大明神川の流路が定まらず、暴れ川であったためだといわれています。ある時期は上市・石延の方向へ流れ今の新川に流路をとり、ある時期は新町・安出の方向へ、またある時期は甲賀神社の北側より国安・高田の方向へと流れていました。
現在の流路は、永禄年間(1560-1571)の大洪水で現在のように変わったと伝えられています。治水工事が進んで流路が変化しなくなったのちには、大水のたびに土砂が流出し、河底に堆積した土砂礫は人力によって掘り取られ、堤防補強のため堤防上に積み上げられました。こうした人力と自然力の繰り返しにより、両岸および河床が長い年月の間に平地より高くなり、三芳・六反地・正法寺・高田・高須地区では家の屋根より川底が高い天井川が出来ました。
かんがい用の堰で主なものは、佐川の小掛堰より下流へ、大掛堰、明神堰、赤石堰、象ヶ鼻堰、大宮堰の6カ所の堰があり、その下に桑村・国安地区への取水口があります。
大明神川は“天井川”の呼び名の通り、川床が民家の屋根よりも高くなっているところがあります。下流ではJR予讃線(単線)が川底をトンネルで通過している全国的にもめずらしい川です。
大明神川のあるJR壬生川~三芳間は、大正10年(1921)9月25日に工事に着工し、大正12年(1923)10月1日に完成しています。1つの駅の区間に2年もの期間を要したのは、大明神川トンネル(全長65.53m)が難工事であったことを物語っています。それは普通のトンネルとは違い、全国的にも珍しい川床をくぐる工事であったためです。
古来より名うての暴れ川であった大明神川を、何とか制御しながら工事を進めました。工事は西から東に流れる川を南北にJR予讃線が横切るため、工事を東西に分割して施工しました。一方を水路として残し、半分づつ開削して工事をするオープンカット工法(露天掘工法)がとられたようです。その後何回かの洪水被害に遭い現在の形になっています。
日本で初めて河床をくぐるトンネルが出来たのは、明治4年(1871)7月の神戸市の石屋川トンネル(現在はJR西日本が高架橋になったため埋められています)でしたが、それも天井川をくぐるものでした。全国には河床トンネルは何か所もありますが、鉄道用の河床トンネルで現存しているものはかなり少ないようです。
今では上側を今治小松自動車道(高規格道路)が走り、近代化の波が押し寄せているのを感じます。
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大明神川の両岸には、堤防の決壊を防ぐために2千本ほどの松が植えられていたそうです。大きいのは400年ぐらいの樹齢をもつものもあって、松並木が海岸近くまで続いていましたが、近年の松くい虫被害でほとんどの松が姿を消してしまいました。大明神川左岸から松並木を通して眺めた石鎚山(1982m)は絶景だったといわれています。
大明神川中流
大明神川の周辺では、かんがい用水を確保するために、伏流水を有効に利用しています。代表的なものが「いずん掘」(泉掘)です。旦之上から三芳(みよし)にかけて5カ所の「いずん掘」が現在も水を湛えています。
いずん掘の臼池は、弘法大師がこの地をご巡錫(じゅんしゃく)の折、楠の北端の北川にかかる自安橋のふもとに安置され、旅人の安全を祈願され、更に街道を南に下られる途中で、道端の小川の少ない水でお芋を洗っていた老婆に、そのお芋を所望されました。老婆は見ず知らずの旅のお坊さんに、快くさし上げました。この辺りの水不足で困っていることをお話したところお大師さんは早速に持っていた杖を立てられ何事かを念じられると、清水がこんこんと湧き出てきました。村人たちは喜び勇んで臼の形の井戸枠をはめられ、お大師さんに賜ったお水として祠(ほこら)を造り「御来仰の井戸」「臼池」さんとしてお祀りをしました。
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また、湧水を利用した池も各所に見られます。
三芳地区のかんがい用水は、築池、柳池、三宝池と順次改修され、米作の増産が可能になりました。
現在、柳池は埋め立てられ、ポンプ場に代わっています。
三芳 三宝池
「三芳の田んぼは焼け田んぼ」といわれるくらい、水利の悪い地域でした。
戦後、食料増産が国策となり、新しい水利を求めて村営工事として池の新設工事を進め、個人別出役日数も割り当てられ、スコップ、じょうれん、バケツなどを使用した人力による難工事でしたが、昭和25年頃に完成しました。
三芳の「お池」の名は村民からの募集の結果、県耕地課で決定されました。完成記念に植えた桜は、今ではずいぶんと大きくなっています。
現在もかんがい用水と、上水道の水源として使われています。
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