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このインタビューは、「西条弁・周桑弁」で掲載しています。「方言」は西条地方の人々の生活と深く結びついており、そこで生活する人々の気持ちや感覚をぴったりと表現できると思うからです。
平成9年から西条市飯岡の鮭川(しゃけがわ)水利組合の水頭を務め、今年で10年目になる越智祐二郎さん(67)と各股の理事さんに、平成17年6月の田植えの時の水不足(異常渇水)をどのようにして乗り切ったか、また、昔から続く鮭川水利組合独自の少ない水の管理方法や、昔の「水利紛争(水争い)」などについてお話をお聞きしました。
鮭川水利組合水頭
越智祐二郎さん
Q1:鮭川水利組合のかんがい用水の供給区域や面積、組合員数、管理している施設はどれくらいあるんでしょうか? 【越智(祐)】 新居浜市の大生院川口から、西条市飯岡までの鮭川(しゃけがわ)が私たちの組合の管理区域になります。かんがい用水の区域は西条市の飯岡東(亀の甲)から西原までです。面積は約52町(52ヘクタール)で、92名の組合員がおります〔います〕。取水口は新居浜市の渦井川の大生院川口にあり、新居浜の大生院水利組合と同じとこ〔ところ〕から取水をしているんですよ。 併用区間は川口から分又(わけまた)までの約180mで、途中新居浜市を経由し、西条市に入ってからは、河の前(ごうのまえ)、中又(なかまた)、猿又(さるまた)、上又(うわまた)の四又(四つの分岐)に分かれているんです。 管理している池は、皇子池(おうじいけ)、祖父崎池(そふざきいけ)、八幡池(はちまんいけ)の3つですが、現在でも現役バリバリで活躍していますよ。 |
一番井堰(新居浜市大生院川口)
一番井堰の取水口(新居浜市大生院川口)
鮭川水利組合と大生院水利組合の分岐 (新居浜市大生院川口) |
猿又・上又最初の又 河の前・中又最初の又 (飯岡半田地区) |
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Q2:鮭川水利組合には昔から水頭(すいとう)という制度があるようですが、どういったお仕事をされるんですか? 【越智(祐)】 昔の水頭さんはね、絶対的な権力があってねー、何事も自分で決めて、組合員はそれに従うというようなシステムになっていて、責任も重く大変だったと思います。今の水頭はね、皆さんのお世話の取りまとめをする組合長みたいな存在ですよ。 |
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Q3:それで、平成17年の6月の田植え時期には、異常渇水で水がなかって〔なくて〕「田植えをやめよか」というような人がいたと聞いていますが、どんな状況だったんですか。 【越智(重)】 6月30日頃にはね、約半分ぐらいの田んぼの田植えが済んどったんよ〔済んでたんですよ〕。飯岡地区には鮭川水利組合のほかに、前川水利組合もあるんで〔あるので〕、そこのポンプの水をあげて(汲み上げて)もらい〔もらって〕、鮭川に水を融通してもらいながら急場をしのいでいたんよ〔いたんです〕。そしたら6月30日の夜に大雨が降ってねー、それから7月5日まで毎日雨が降り続いたんよ〔です〕。それで何とか田植えが出来たんですが、あの時の雨は本当にありがたかった。おてんとうさんに感謝せないかんねぇ〔しないとね〕。 |
Q4:大変だったんですねぇ。それで、田植えが出来なかった所はなかったんですか? 【秦】 おかげさまでねぇ、一応希望者は全員田植えが出来ました。全部の田んぼが植え終わったのは、たぶん5日か6日ごろじゃー〔では〕ないんだろか。一人だけ10日くらいまでかかった人もおったけんど〔いたけど〕ね(笑)。まぁ、のんきな人がおる〔いる〕んよ(笑)。 |
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Q5:それで、田植えが遅くなったのに苗は準備できたんですか? 【越智(祐)】 早よう出来た苗はまくって〔捨てて〕ねぇ、後から出来た苗を使こうたんです〔使ったのです〕よ。早期の「コシヒカリ・あきたこまち」から「松山三井」までいうたら〔言ったら〕2ヶ月くらい期間があるけん〔あるから〕ねぇ。水不足の時は特に苗の管理が大変じゃ〔大変だ〕ということですよ。 Q6:そうですねぇ、で、飯岡地区で作っているお米はどういう品種が多いんですか? 【越智(祐)】 「ヒノヒカリ」が一番多かろうねぇ、続いて、「愛のゆめ」、「松山三井」、「コシヒカリ」、「あきたこまち」やろ〔でしょう〕ねぇ。「愛のゆめ」は農協の奨励品種やけん〔だから〕ねぇ。このあたりは「松山三井」が減って「愛のゆめ」が増えてきよるんよ。私は松山三井が好きやけど。粒が大きゅうて〔大きくて〕おいしいよ。ほんと!! |
Q7:飯岡地区は、大昔から慢性的な水不足のところだということですが、かんがい用水の管理は誰がするんですか。 【越智(文)】 新居浜市の大生院からだんだん〔順に〕水を集めてくる人がおりますんよ〔いるんですよ〕。1番目の水番が川口番(かわぐちばん)で、次が原又番(はらまたばん)、ほんで(そして)こっち〔こちら=飯岡地区〕へもんたら〔帰ったら〕四又(よまた)の組合員が当番を決めて水番をするんですよ。 Q8:田んぼに水を入れる時の優先順位はあるんでしょうか。 【越智(文)】 ほらぁ〔それは〕、ありますよ。まず、植田(うえた=田植えしたあとの田んぼ)が1番で、つづいて荒掻き(あらがき)をした田んぼです。荒掻きをしていないところは最後になるようなルールで管理をしているんですよ。 |
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Q9:平成17年6月の田植え時期の水不足で、米の収穫量に影響はなかったんですか? 【秦】 そうですねぇ、収穫量としては全体的には平年作(農作物の収穫が平年並みであること)ぐらいでしたが、半夏(はんげ=暦のうえで田植えの終期とされ、これ以降に植えたら収穫量が半分になるといわれ、「どんなことがあっても半夏までには田植えを終えなければならない」といわれている日で、夏至(げし)から数えて11日目の7月2日頃のことをいう)以降に田植えをしたところは収穫量が少なかったようです。 |
Q10:米作りは天候に左右されるんで、大変なお仕事なんですねー。それで、渇水期の水番が管理をするときの、給水や止水の時の基準はあるんですか 。 【越智(文)】 その時の状況によって、水利組合で協議してね、「着き止め」(田んぼの端まで水が行き渡ること)ちゅぅのと〔というのと〕、「かなり入れる」ちゅぅのを協議して、渇水期の水番に指示を出しよんよ〔出しているんですよ〕。最初はねぇ、稲がこんまい〔小さい〕ですけん〔ですから〕ねぇ、渇水期の水番は大変なんですよ・・・ Q11:ずーっと〔長い間〕田んぼについとる〔いる〕訳ではないので、水加減が難しいでしょうねぇ。それで、渇水期の水番が管理をする際に、何日ごとに水を入れるというような基準はあるんですか? 【越智(文)】 飯岡地区は田んぼの水持ちが良くない(保水力がない)んで、渇水期の水番をつけたときは、原則、1日1回は水を入れるというのを基本にしています。まっ!水が無いんです(笑)。 |
Q12:それで、7月には「土用干し」で、田んぼの水を全部抜いて乾かしますが、渇水期の水番が水が無いと思って、水を入れてしもたら〔しまったら〕困るでしょう。それを水番にどうやって知らせるんですか? 【越智(重)】 昔からそうですが、田んぼに水を入れて欲しくないときはねぇ、田んぼの水口(みなくち=水を入れるとろ)に立て札(しのべ竹の先を割り、「土用干し中」と紙に書いたものを挟んでおく)を立てるような習わしになっとるんですよ。また水を入れて欲しくなったら立て札を除けたらええ訳ですよ。いたって原始的な方法じゃけどねぇ(笑)。 Q13:鮭川水利組合では、水を使う前になったら〔なると〕、いまでも一番井堰で土のうを積むんですか。ほんとーですか・・・!? 【越智(重)】 まず最初に(1)仮締め切り(かき立て=河原にある石を簡単に並べて、あら水を引き込むようにする作業)をするんですよ。続いてね、(2)旧5月節(6月6日頃)の前日の午後6時から翌朝の午前6時まで堰を切って、全部の水を下流へ流すんですよ。その後は(3)本締め切り(土のうを前後二段づつに積み重ね、前と後の土のうの間へ赤土を入れる作業)をして飯岡地区の田植えの準備が始まってね、カエルが「ケロ・ケロ」鳴きだすんよ。 |
Q14: 鮭川水利組合の「水番制度」の歴史は古いと聞いているんですが、どんなローテンションで水番をするんですか? 【越智(祐)】 水番には四つのコースがあってね、必ず(1)半田番(夜7時から翌朝の6時まで)から始まるんよ。続いて(2)西番(朝の6時から翌朝の6時まで)、続いて(3)半田番(朝の6時から当日夜の7時まで)、続いて(4)西番(夜7時から翌夜の7時まで)で終わりとなります。しかし、用水期間中(原則、節の10日前から100日間)はこのローテーションが延々と続くんですよ。気がながないと〔長くないと〕務まりませんよ(笑)。 Q15:それなら兼業農家(農業以外の仕事を持っている農家)の人は大変でしょうね。それで、誰が水管理をするんですか? 【越智(祐)】 水を集めてくる役目の川口番と原又番は専属です。後は、四つの又の当番が水を引いていく〔取っていく〕んですよ。その水を各自が自分の田んぼに引くようになるんです。また、池の水を抜くような状態になってきたら、各又以降の水管理はすべて渇水期の水番が行うようになるんです。 西 番:藩政時代の上島山村庄屋の所有田を所有している人が水番を担当するとき(24時間の水番) |
Q16:田植えはいつ頃までに植えたらええ〔いい〕という基準はあるんでしょうか。 【秦】 そうですねぇ。昔から半夏半作(はんげはんさく=半夏とは、暦のうえで田植えの終期とされている日で、夏至から数えて11日目の7月2日頃のことをいい、これ以降の田植えでは収穫が半分になるという諺)といわれとんです〔いわれているのです〕よ。昔からね「半夏(はんげ)のハゲあがり」いうて〔言って〕の、この頃はよう天気になるんよー。ちょうど石鎚山(1982m)のお山開きが始まる頃じゃねぇー。 |
Q17:飯岡地区では田植えの準備はどんなふう〔どのように〕にするんですか。 【越智(重)】 飯岡地区ではね、「おーい!田んぼに水が入るぞー!」っていうたら〔言ったら〕、それ、機械(トラクター)をじっと田んぼに置いとって〔置いておき〕の、ほんで〔そして〕麦畝(むぎうね)にしたら3列ぐらい水はめて〔入れて〕、ためて田んぼをすいて(土を掘り起こして)、また切って、この繰り返し。ほんで〔そして〕水が全体に回ったら〔行き渡ったら〕正式に代掻き(しろかき)をする人が多いんよ。 Q18:手間がかかるんですねー。同じ西条市内の中でも飯岡地区や周桑地区ではずいぶん田植えの仕方が違うようですが。 【越智(重)】 そうじゃ〔そうです〕ねぇ、水のない年には、荒地(あらじ)仕上げした一杯の水(一度入れた水)で田植えをせないかん〔しなければいけない〕という年もあるんよ。植え終わった所にも水がいるし、荒地を仕上げる所にも水がいるんよ。両方に水がいるんでね、ずんずん〔どんどん〕遅くなるけん〔なるから〕ねぇ。水の少ない時期は、状況によって慣行が変幻自在(へんげんじざい)に変わっていくんで大変ですよー。 |
Q19:かんがい用水のお世話をされる人は大変ですねー。水のある時期はええけど〔いいけど〕、水のない時期はご苦労が多いんじゃろねぇ〔でしょうね〕。 【越智(祐)】 そうですねぇ、昭和27年5月に貯水量76,830トンの皇子池が出来てからはある程度水不足が緩和されるようになったねぇ。「ご先祖さまのおかげ」だと感謝していますよ(合掌)。また、最近は減反も多くなったんで影響がだいぶ〔ずいぶん〕違いますねぇ。 Q20:鮭川には「尾水(おみず)の権利」というのがあると聞いとんです〔聞いています〕、どんな権利なんですか? 【越智(祐)】 水番が切り替わる際に、水路に残っとる〔残っている〕水を取る権利のことを言いますんよ。「尾水」とは、切り替わりの際の中間に浮いとる水〔水路に残っている水〕のことですが、上流側から「おーい!水を取るぞ!」と言って、手を上げた順に水を取ることが出来るんです。この地域では尾水といえども「貴重な宝の水」だいうことです。今でも水の少ない時期になるとね、不思議とねこの考え方が復活するんですよ。(笑) |
Q21:鮭川ではその昔、水の切り替えは「日の出・日の入り」でしていたようですが、現在は何が基準・・・? 【高橋】 その昔はねぇ、水の切り替えは、「日の出・日の入り」で決めとったんで〔決めていたので〕、天気の悪い日には山がよう〔よく〕見えんけん〔見えないから〕、「日の出・日の入り」の判別が難しかったようです。新聞によっても時間にズレがあってねー、当時は愛媛新聞が一番正しいということになっとったらしいよ(笑)、これでよう〔よく〕喧嘩になったという話を聞いとります〔聞いています〕よ。今は時間で決められているので、もめ事はほとんどなくなりましたがねー。 |
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Q22:それで、今まで田植えの時期に水がなかったことはあったんですか? 【越智(重)】 皇子池が出来るまでには、植え付けが出来んかった〔出来なかった〕年が相当あるん〔あります〕よ。田植えが出来てもね、「分けつ期」のときや、「出穂水」(でほみず)のときに水がなかったら、いちにんまえ(一人前=おとな)のお米になってくれんけん〔くれないから〕ねぇ。 |
Q23:鮭川では、古くから新居浜市の大生院川東地区土地改良区(渦井川より東の地区)との水争いが絶えず、裁判沙汰にまでなったことがあったようですが、どうして・・・。 【秦】 上ノ井堰(一番井堰=現鮭川水利組合管理)は新居浜市の大生院川口にあります。下の井堰(二番井堰=現住友泉水組合管理)は一番井堰から約100mほど下流(取水口は右岸)にあって、この井堰を造るときに、藩庁(小松藩1万石)に願い出た大生院村庄屋『高橋文書』(新居浜市広瀬歴史博物館蔵)が残っています。 Q24:その『高橋文書』にはどういうことが書かれているんですか? 【秦】 この文書にはね、当初は「用心水(防火用水)であって、余り水(堰を抜けて流れてくる水)が下流へ少しも流れてこなかったとしても、異議は申し立てないよう後々の者に申し伝える」というようなことが書かれているんです。 |
Q25:その文書があるのに、なぜ水利紛争(水争い)から裁判にまで発展したんですか? 【越智(祐)】 明治になってね、かんがい用水の水利慣行が出来たために水利紛争が始まったようですねぇ。鮭川第一井堰水利組合(現在の鮭川水利組合)が明治10年(1877)に上ノ井堰(一番井堰)を改修したことに端を発し、その後にも、災害の改修工事をしたことで紛争が表面化したようです。記録によると、昭和10年(1935)には上ノ井堰(一番井堰)が2回破壊されているんですよ。 Q26:その後は・・・ 【越智(祐)】 昭和12年(1937)には「大生院村渦井川水利協定」が成立したんですがね、その中で取り決められている毎年、旧5月節の前日午後6時から翌日の午前6時まで一番井堰を切る(堰から水を下流に流す)という協定書をめぐって、堰を切る切らんで毎年ゴタゴタ(もめ事)が続きましてね、そのうち、新居浜市の第二井堰住友泉水利組合が鮭川第一井堰水利組合を相手取って裁判になったんよ。昭和50年(1975)に高松高等裁判所により判決が出て、第二井堰住友泉水利組合が敗訴となったんです。 |
Q27:それで、裁判以降、第二井堰住友泉水利組合との関係はどうなっているんですか。 【越智(祐)】 昭和50年(1975)以降は水利紛争も一応収まって、昭和12年の水利協定の取り決め通り、旧5月節の前日の午後6時から翌朝の6時までの12時間は、鮭川水利組合の方で一番井堰を切っています。そして、この日には今でも相手方が必ず立会に来ていますしねぇ。今では普通にお話が出来るようになっていますが、昔じゃー〔では〕そうはいかんかったやろ〔いかなかっただろう〕ねー。(笑) Q28:鮭川水利組合の運営面で、今後何か気になるようことはありますか。 【越智(祐)】 水路の維持管理が主じゃ〔です〕ねぇ、距離が長いけん〔長いから〕ねぇ。新居浜市の大生院水利組合との併用区間の川口から分又までの約180mの区間は、昔からの取り決めでコンクリートの三面水路に改修が出来んのよ〔出来ないんです〕。新居浜市の川口より下流側の地下水に影響が出るということでいらえん〔さわれない〕のよ。水路が災害で痛んだ〔壊れた〕時は、西条市に頼んで法面(のりめん=横の面)だけ直してもらいよんじゃけどねぇ・・・〔もらっているんですがねぇ〕 。 |
Q29:それでは最後になりましたが、今後の抱負などをお聞かせください。
【越智(祐)】 用水路はあるけんど〔あるけれど〕、排水路がないんで〔ないから〕ねぇ。大水の時には下のほうで水が溢れるんですよね。困ったもんじゃ〔ものだ〕。これを何とかしたいですねぇ。 |
本日は、貴重なお話を長時間にわたりお聞かせていただきありがとうございました。
『米』とは、読んで字のごとく、八十八の手間がかかるということで、大変なお仕事だと言うことがよく分かりました。日本の農業を取り巻く環境はかなり厳しい面もあり、ご苦労が多いとは思いますが、皆さんのお力で愛媛の農業を考え、西条の農業を支え、私たちに「西条産米のピカピカのおいしいお米」を食べさせて下さい。
インタビュー・写真:西条市環境衛生課
平成18年12月18日取材