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【戦後80年企画】市民の皆さまの『平和への思い』を紹介します
【戦後80年企画】市民の皆さまから寄せられた『平和への思い』をご紹介します
西条市『平和への思い』年代別集計結果(10月25日時点:200件)

戦後80年を迎える本年、西条市では、
戦没者への哀悼を通じ、命の尊さと恒久平和の実現を次代へ継承するとともに、平和の大切さを共有するため、「平和への思い」を込めたメッセージを募集しました。
市民の皆さまから寄せられた200件以上の平和への思いを紹介します。
多様な世代が語る「平和への思い、願い」をぜひご覧ください。
年代別にご紹介します
(年代をクリックすると、各年代のメッセージ掲載部分へ移動します。)
【~10代】の方々からのメッセージ
| 年齢 | メッセージ |
| 6 | せんそうをおこさないためには、やさしくはなす。あいさつをする。おねえちゃんとけんかをするときは、あやまる。と、おもちゃでかいけつする。 |
| 7 | せんそうをおこさないために、わたしは、みんなのためにがんばります。わたしは、みんなとなかよくなれると、いいきもちになりますよ。わたしは、せんそうにならないようにします。わたしは、みんなとなかよくなりたいです。わたしは、みんながわるくならないように、がんばります。わたしは、みんながうれしくなるようにがんばります。 |
| 7 | せんそうをおこさないために、おにいちゃんとけんかしたら、おもちゃでこうしょうする。 |
| 7 | せんそうをおこさないために、ぼくは、ともだちとなかよくなりたいです。いっしょにあそぼうといいたいです。 |
| 6 | せんそうをおこさないために、わたしは、みんなにやさしくするために、なかよくなります。こまっていたら、たすける。 |
| 6 | せんそうをおこさないために、いもうととけんかをしたら、「ぬいぐるみをとって、ごめんね。」とあやまる。 |
| 8 | くにとくにといっしょに、食べものをわけたら、せんそうがなくなるはず。 |
| 8 | くにとくにが、水としょくりょうをわけあう。 |
| 7 | せんそうは、くにとくにけんかしているけど、なかよしになればいい。 |
| 7 | せんそうをやめたらいい。 |
| 8 | せんそうをしてたのしいのか。じぶんのこどもだったり、しんでもかなしくないのか。いまのパレスチナ人みたいに、どんどん人がへっていくから、せんそうは人をきずつけたり、人がへったり、こどもたちがしんだり。せんそうは、人をきずつけます。人をきらいにならない。 |
| 8 | せんそうをおこさないために、おたがいをきづかう。 |
| 7 | 国と国がなかよくできたらいいと思う。 |
| 9 | せんそうをおこさないためには、話し合いをしたらいいと思いました。なんで話し合いかというと、せんそうはいけないことだから、なんでせんそうをしなきゃいけないのかをきいたら、せんそうをおこさないと思う。せんそうをしたら、人は死んじゃうから、その死んだ人のきもちになってもらって、かなしいということを考えると、せんそうはなくなる。 |
| 8 | 話あいをして、せんそうをやめる。せんそうがあったら、国の人たちがかなしい思いになるから、ゴミ拾いやぼきんをして、せんそうで家がなくなってしまった人たちも、そのぼきんでこまらなくなるから。 |
| 8 | いろいろなさくせんとかをかんがえて、せんそうにならないようにする。いろいろな国と、せんそうはもうやめようとそうだんをする。 |
| 9 | せんそうを起こさないために、国のだいとうりょうたちと話しあいをしてきめることだと思う。こうげきをしたらやりかえしてくるから、やりかえさないと思う。 |
| 10 | 戦争でこうげきされても、こうげきをしないといいと思う。戦争をやめるために、話し合いをするといいと思う。こうげきをしなかったら、こうげきされないから、こうげきをしないといいと思う。 |
| 9 | 戦争をおこさないためには、みんなが安全安心してくらせる町にするために、相手がうれしいことばやうれしいことをして、人々が安心してくらせる世界にする。気持ちよくすごせるような町になると、戦争は絶対にこないと思った。 |
| 11 | 戦争を起こさないために、できるだけケンカや言いあらそいをしないようにする。 |
| 11 | 戦争を起こさないために、人しゅさべつをなくす。原水ばくを作らないという。全国の文化や食べ物などをわける。戦争をしないというポスターを作る。地球かんきょうのことを考える。年に一度、全国の文化まつりをする。 |
| 10 | 戦争を起こさないためには、まず戦争用のぶきを作らなかったらいいと思います。戦争のためのぶきがあるから、戦争をしてもぶきがあるからだいじょうぶと思うから、ぶきがなくなれば、戦争は起こりにくいと思いました。 |
| 10 | 平和のためには、平和のべんきょうをしたり、外国の人と仲良しになるのが大事だと思いました。これからは、英語のべんきょうをしたいです。 |
| 11 | 戦争を起こさないためには、かくへいきなどはもたずにする。そして、戦争のむなしさをしらない人は、ひばくちなどにいくと戦争のむなしさがわかる。力でかいけつしようとしない。話しあうことが大切。 |
| 12 | しげんや土地、食料など、いろいろなことで戦争が起こるから。そんな、どこの国がゆうふくにくらせるとか、そんなんじゃなくて。しげんや食料をわけあたえたりして戦争をせず、みんなでなかよくくらして、みんなで楽しくくらしていけばいいと思う。 |
| 12 | 戦争を起こさないために、外国の人に対する差別をなくしたり、げんしばくだんやじゅうをもたないようにする。へんけんで人をきずつけないようにする。 |
| 11 | 簡単に出来ることではないと思うけど、各国がおたがいを助け合ったり、協力して進んでいけば、戦争も起きずに、技術も発展するんじゃないのかなあと自分は思い、他にも国が同じ目標に向かっていけば、協力できるようになるんじゃないかなあとも思いました。 |
| 12 | ぼくは、戦争を起こさないために、国と国どうして仲良くしたらいいと思います。国どうしで、仲良くしていたら、戦争が起こらないと思ったから、国と国どうしが仲良くすればいいと思いました。 |
| 12 | 戦争を起こさないためには、まず、どこの国でも仲よくなることが大事だと思います。今、日本は、もたない、作らない、もちこませない考えかたをしているので、外国の国も日本の今言ったひかく三げんそくを意識すると、戦争が少しでも減ると思います。 |
| 7 | せんそうをされてもかえさない。 |
| 11 | 原爆を知るということは、戦争の悲惨さや苦しみを知ることだと、私はそう思います。昭和二十年八月六日午前八時十五分の一発の原爆で、広島でたくさんの命がうばわれました。戦争は悲惨なものです。人々を絶望におとしいれるのです。私は、この事実と被爆者の思いを広島のみなさんとともに、未来へと、世界へと伝えていきたいと思います。今、日本には、原爆を知らない人もいます。数十年後には、被爆者がいなくなるかもしれません。だから今、私たちが原爆について伝え、次の世代へつなごうとすることが必要です。私たちの言動や行動が、世界や未来を平和にするための第一歩なのです。そして、伝えること以外でも、世界を平和にしようとする行動の中には、私たちにもできることがあります。例えば、自分とは違う人を理解しようとすることなどです。今、自分にできることから始めるだけで、世界が変わるかもしれないのです。 |
| 11 | 八十年前の悲劇をくり返さないために、私たちは原爆が存在しない世界をつくっていく必要があります。被爆から八十年が経った今では、被爆者が思い出したくない出来事を直接話してくれる機会が少なくなっています。だからこそ、小学生の私たちが耳をかたむけ、次の世代に伝えていくことが大切だと思います。そして、今の平和な世の中が続いてほしいです。 |
| 11 | ぼくは、平和学習を通して、戦争や原爆のおそろしさ、被害にあわれた方々の苦しみや悲しみを知りました。今の平和な生活がとても幸せでありがたいものだと分かりました。戦争のみにくさや平和の尊さを伝えていくき、今の自分たちに何ができるか考え続けることは、ぼくたちがやらなければなりません。今ある平和と笑顔を未来へつないでいきたいです。 |
| 12 | ぼくは、平和学習や修学旅行を通して、原爆が恐ろしいものだと知りました。特に、実際の様子を見たとき、あんなに大きい建物が一発の爆弾でぼろぼろになっていてとてもこわかったです。資料館では、被害にあった人の服や大事にしていたものがぼろぼろになっていて、原爆がこわいものだと知りました。小さい子どもでも、家族にも会えないまま亡くなくなってしまったと知り、とても悲しいことだと改めて感じました。ぼくが原爆の被害にあったらと思うだけで、こわくてこわくてたまりません。戦争は、よくありません。ぼくが大人になっても、世界では戦争がまだ続いているかもしれなくて、そのせいでたくさんの人の命が亡くなったり、家族と会えなくなったりするのは、とても悲しいです。戦争で苦しむ人々が少なくなってほしいと思います。 |
| 12 | 私は、平和学習を通して、相手の立場に立ち、相手のことを理解しようとすることが一番大切だと思います。たとえ理解できなくても、理解しようとする心が平和につながっていくと思います。平和学習をする前の私は、相手の立場になって考えるという心がうすかったと思います。でも、今では、相手の立場になって考えるということを一番に考えて行動できていると思います。広島に落とされたのは一発の原子爆弾です。その一瞬の出来事で多くの命が消えたことを忘れず、もう二度とこのようなことが起こらないように、私たちが原子爆弾の恐ろしさ平和の大切さを伝えていきたいです。そして、たった一瞬の行動が人々の考えを変え、多くの命を助けることができるということも伝えていきたいです。 |
| 12 | 私は、平和学習を通して「平和」ってとても尊くて、大切な存在だなと思いました。平和学習では、出前授業、調べ学習、修学旅行などのたくさんの経験をしてきました。たくさんの経験をしたからこそ、最初の自分の意見と今の自分の意見が変わってくるんだなと思いました。私のひいじいちゃんは九十四才で、戦時中の生活をしていたそうなので、聞いてみることにしました。ひいじいちゃんは「軍隊学校に通い、兵隊になるための訓練をしていた。しかし、ひいじいちゃんのお父さんは特攻機に入って亡くなった。」と涙ぐんで話していました。私は涙ぐむひいじいちゃんを見てとても悲しくなりました。そして、話を聞いて、戦争のみにくさを改めて感じました。私は、戦争がどれほどおそろしいか、平和がどれほどありがたくて、大切なものかを世界中の人々に知ってほしいと思います。明日、一週間後、一年後・・一人でも「幸せ」と思える人が増えたらいいなと思います。 |
| 12 | 私は修学旅行で広島へ行き、平和って大切だと思いました。私は、今の平和な日本が当たり前のことだと思っていました。しかし、学校での平和学習を通して、平和の大切さ、戦争の恐ろしさを知ることができました。平和記念資料館には、今の私たちの生活とは全然ちがう風景がありました。真っ黒なお弁当、ボロボロの三輪車など、当時の様子が伝わってきました。今年は戦後八十年で、どんどん被爆者が減っています。私たちは当時の事実は語れないので、今知っていることを未来につないでいきたいし、絶対にこのような過ちをくり返したくないと思います。 |
| 12 | ぼくは、みんなが平和の大切さを知り、平和を守ろうとすることが大事だと、今までに勉強してきて分かりました。また、ぼくは修学旅行に行って戦争の恐ろしさ、核兵器のこわさを知りました。核兵器はいっしゅんにして建物をこわし、命をうばいました。それを知ってぼくは、こわいなと思いました。原爆がさくれつした後、ぼくらみたいな小学生が家族とはなればなれになったり、大けがをしたりしました。もっと遊びたかっただろうし、もっと家族と思い出を作りたかっただろうと思うと胸が苦しくなりました。その後も核兵器の放射線を受け、苦しむ人もたくさんいました。ぼくは、おかしいなと思います。まだ小さな子の命がうばわれるなんて。だから、このようなことがもう起こらないよう、みんなが平和の大切さを知り、平和を守ることが大事だと思います。 |
| 12 | 絶対に忘れない。八十年前の悲劇を。真っ赤に染まった広島の町を。被爆者の思いを。一九四五年(昭和二十年)八月六日午前八時一五分、広島に一発の原子爆弾が落とされました。原子爆弾は、広島の町を消しとばし、たくさんの命、建物、そして、広島の活気あるにぎやかな町をいっしゅんにしてうばっていきました。私たちは、同じ人間として、このような過ちをくり返すことは、絶対にゆるしません。私たちは、いつになってもこのような過ちをくり返さないために、やらないといけないことがあります。一つ目は、平和の大切さや尊さを学び、知ることです。二つ目は、それを次世代へと伝えていくことです。ぼくは、絶対に同じ過ちをくり返しません。そして、平和の大切さや尊さをたくさんの人へ伝えていくことを大切にして、生きていきます。 |
| 12 | エヒメとヒロシマはつながっている。こんなことを考え出したのは、私が平和学習で平和について学んだときだ。私の曾祖母は八歳のとき、原子爆弾を見たと言っていた。広島から何百キロメートルも離れているのに原子爆弾の光を見たらしい。これは、平和学習を終えた私からすると、とてもぞっとする。こわいどころじゃない。何百キロメートルも離れた広島では、この一発の原子爆弾で大勢の人が亡くなっていたのだ。恐ろしくてたまらない。今、平和や戦争のことを曾祖母に聞こうとしても、もういない。でも、昔聞いたことや平和学習で学んだことは、次の世代につなげることができる。平和な世界がやってくるのは何年後、何十年後かは分からない。でも、私が生きている間は伝えていきたい。必ず私たちが伝える。もうあの戦争を、悲劇をくり返さないよう。エヒメとヒロシマをつなぐ。 |
| 12 | 今の平和な生活は、本当にありがたいものだと思います。被爆者の方々が書いた詩を実際に読んでみました。すると、驚くほど鮮明に描かれており、被爆者の方々の思いが伝わってきました。当時の広島からは、今の生活が考えられないし、ここまで発展したまちになったのが不思議にも思えます。しかし、平和記念公園に足を運んでみると、みんなの平和への思いが強く伝わってきて、今の生活のすばらしさが分かりました。今もどこかで戦争が起こっている、苦しんでいる人がいます。そんな戦争はもうなくなってほしいばかりです。だからこそ、大きな問題を未来に任せるのではなく、小さな問題から、今の私たちが解決へと進めていくことが大事だと私は思います。 |
| 12 | 平和な世界を実現するためには、みんなが仲よく協力し、相手を受け入れることが大切だと思います。当たり前のことだけれど、みんなと仲よくするということは、人と付き合っていく上での第一歩だと思うからです。戦争によって何の罪もない人々が亡くなっている事実があります。そんな戦争のむごさや苦しさ、過ちをくり返さないためには、ぼくたちが平和への思いを伝えることが大切だと思います。原爆や空襲など、戦争のおそろしさを知り、伝え、「戦争をしてはいけない」「平和を絶対守っていかないといけない」と思う人が増えていけば平和に近づくと思います。ぼくはこれからも人と関わっていくときには、相手の考えを受け入れて仲よく過ごしていきます。 |

【20~30代】の方々からのメッセージ
| 年齢 | メッセージ |
| 24 | 世界が平和になりますように。また核兵器がなくなりますように。 |
| 26 | 戦争を 語る人たち いなくなる でも忘れない 伝え続ける |
| 28 | 実際に戦争体験をした世代がほぼいなくなってきたので今こそ戦争体験の資料として残して正しい歴史を後世に残していって欲しい |
| 30 | 平和は抽象的な理想ではなく、子どもたちの笑顔、働く人々の安心、そして高齢者や障がいのある方を含む全ての市民が尊厳をもって暮らせる日々の暮らしの積み重ねであると考えます。 |
| 30 | 「人が人の命を奪うことがあってはならない」ということを皆が分かっていれば、世界は平和になる気がします。 |
| 31 | 戦争の傷跡は戦後80年がたった今でも残り続けています。戦争のない世界を願ってやみません。 |
| 32 | 祖父母から戦争中の出来事や家系について教えてもらったことがあります。松山市在住であったため松山大空襲の悲惨な出来事を聞いて恐怖を感じたことがありました。先祖の事を聞くとフィリピンでの戦死、特攻等若くして亡くなった先祖がおりました。現在、自分が生活できているのも悲惨な出来事を教訓にし平和な社会になっているため次の世代にも平和な社会を繋いでいきたい。 |
| 32 | 小学生の頃、祖父母から戦争体験談を聞く宿題があり、その時に聞いた話が今でも心に残っています。祖父母も亡くなり、戦争を経験した人たちが少なくなっていることで、戦争の恐ろしさや身近さを知らない人たちが増えていくとは思いますが、語り継ぐことの大切さを感じています。私たちに出来ることを考えていきたいと思います。 |
| 34 | 戦後80年、全世界で戦争がない日々が来ることを願っています。 |
| 21 | 自分と異なる考えを持っていても、それを否定せず、対話を通じて理解を深めることが大切だと思います。 |
| 26 | 今後戦没者や殉職者がいなくなり、戦争や争いによって辛い思いをする人がいない世界になりますように |
| 27 | 世界では今も戦争が続いています。一部の大人のエゴによって引き起こされた戦争は、理不尽に多くの命やまちを奪い続けています。世界中の人々が過去の過ちに向き合い、戦争がなくなりますように。 |
| 28 | 戦争はなぜ起こるのか、戦争をすることはなぜいけないのかを知る機会を持つことが、戦争抑止のために大切だと感じます。戦争をすることの惨さを国民全員が理解し、後世に伝えていってほしいと思います。 |
| 30 | 先日、広島へ行った際に修学旅行以来となる原爆ドーム・平和記念公園に立ち寄った。学生の時には戦争の壮絶さをイメージできてなかったが、大人になり改めて原爆ドームなどを見ると、戦争は二度としてはならないと感じることができた。 |
| 30 | 平和への思いと聞かれても、平和な時代しか生きてこなかったから何も出てこない。当たり前になってしまった時代。これがリアルなのかも。 |
| 30 | 私の祖父は戦争に参加し、シベリアに拘留された経験がありましたが、拘留時のある一つの体験談しか聞かされていませんでした。今の不安定な情勢を思うと、もっと聞いておけばよかったと思いました。戦争の歴史を学び、繰り返さないようにして期待と思います。 |
| 32 | 小学生のとき、修学旅行で訪れた平和記念公園で戦争を体験された方にお話を伺い、とても衝撃的でした。戦後80年となり、当時のことを知る方がだんだん少なくなってきています。平和が当たり前といえる世界がこれからも続いてほしいと願います。 |
| 33 | 小学の時から祖父に戦争の話を毎年8月にいつも話してくれました。戦闘機を見たなどいろいろ話してくれました。今年の7月に祖父が亡くなりましたが、聞いてきた話を無駄にせず、次世代に話していきたいと思います。核兵器は絶対なくしてほしいです。 |
| 33 | 敵であれ味方であれ、人が死ぬということは悲しいことである。 |
| 37 | 私たちが当たり前のように過ごしている日常のすべては「平和」という見えない土台の上に成り立っています。人を思いやること、違いを受け入れること、争いよりも対話を選ぶこと。平和は、誰かがくれるものではなく、私たち一人ひとりが育てていくもの。その想いを胸に、1日1日を大切に生きていきたいと思います。 |

【40~50代】の方々からのメッセージ
| 年齢 | メッセージ |
| 40 | 平和は祈るだけでは守れない私たちの手で、この国を守ろう |
| 43 | 思い返しますと、私の祖父や祖父の兄弟は、満州やサイパンの地に赴きました。幼いころ、その体験を聞かせていただいた記憶はありますが、幼さゆえに細かなところまでは理解できず、今となってはもっと耳を傾けておけばよかったと悔やまれてなりません。 |
| 44 | 毎日平穏な日常を送らせていただけているのもひとえに日本の礎を築いてくださった当時の軍人さんのおかげだと思います。国の未来のためにと命懸けで戦ってくれたから。自分は亡くなっても日本を救うことができるならと日の丸飛行隊で特攻された方のことを思うと毎日の日常が当たり前ではないんだな、いろんな人の努力や貢献がなければこの暴力が支配するわけではない言論での共生ができることに日々感謝し目の前のことを精いっぱい生きることが戦没者に対しての供養になるように思います。暴力はいけませんが抑止力がなければ暴力に飲み込まれるかもしれません。平和を維持するためにもみんなで日本のことを思い、力を合わせて少しずつでいいので継続して暴力が支配しない日常を維持していきたいと思います。 |
| 44 | 「平和とは、人の心の中から、争いの火種を無くすこと。ただ戦争がないことを平和とは言わない。」と、ある本で読んだ。一人一人の心が穏やかであることを平和というのではと思い、今あることへの感謝と思いやりを忘れず、心穏やかにいたい。 |
| 45 | 戦後80年に亘り日本が戦争をしなかったことは先人の戦争の苦しみを忘れずに来たからで素晴らしいことだと思います。ただ、世界では今なお戦争や争いが絶えず人間は進歩できない存在なのかと残念に思います。 |
| 45 | 私の祖父母は戦前に満州で出会い、結婚しました。祖父母は孫である私に「満州での生活は良かった、あの頃に戻りたい」とよく語っており、思い出として残っています。おそらく、当時の満州での暮らしは比較的豊かであり、日本の移民政策に従って新天地での生活基盤を築こうと努力していたのだと思います。しかし、そのような生活も太平洋戦争の拡大によって大きく翻弄されました。戦争は平和とは真逆の行為であることは疑いありませんが、当時を生きた人々にとっては「祖国を守り、家族の生活を維持するための選択」であった面もあり、その中にも一種の「平和への思い」があったのではないかと思います。歴史を振り返るとき、私たちは戦争の負の側面だけでなく、そこに至った背景や人々の心情にも目を向ける必要があると感じます。現在の私たちが享受している平和で豊かな生活は、こうした先人たちの営みや犠牲の上に成り立っています。だからこそ、平和を語る際には単に「戦争は悪だ」と言い切るだけでなく「なぜ戦争に至ったのか」「人々は何を守ろうとしたのか」という複眼的な視点を持つことが大切です。世界には今も戦争や紛争が続いており、それぞれに複雑な歴史的背景や事情が存在します。単一の価値観や一面的な判断で断じるのではなく、多様な立場に思いを寄せる姿勢こそが平和の第一歩になるはずです。では「平和への思い」とは何か。私自身がたどり着いた答えは、一人の人間として他者に寄り添い、他者の立場に共感し、助け合う心を持ち続けることです。平和とは決して抽象的な理想ではなく、日常の人間関係の積み重ねから生まれるものだと思います。ただ同時に、世の中のすべての人が同じ考えを持つわけではなく、現実には侵略や武力行使を選択する国家や民族も存在します。その現実を直視したうえで、私たちは「個人としてどうあるべきか」と「国家としてどうあるべきか」を切り分けて考える必要があります。個人としては、他者を思いやる姿勢を持ち続けることが平和の礎となります。国家としては、第一義的に国民の生命と財産を守る責務を果たすことが求められます。その際には、戦争の歴史的経験や民族文化を踏まえ、日本国らしい誇りある対応を追求するべきだと考えます。過去の歴史に学び、先人の思いに感謝しながら、私たちは現代にふさわしい「平和の在り方」を模索し続ける責任があります。それは決して遠い理想ではなく、今を生きる私たち一人ひとりの姿勢と選択の中に息づいているのだと思います。 |
| 46 | メディアを通してさまざまな形で戦争体験について触れる機会はあります。一方で、経験者からじかに話を聞くことの大切さも感じています。個人的にもこれまで、戦争体験者の家族から聞いた話や、平和学習での被爆者体験談が最も心に残っています。戦後80年を迎えた中、経験者は減りますが、私たちが直接聞いた話を、家族や身近な人に直接「語り継ぐ」ことが大切だと感じています |
| 47 | 世界中から戦争および核兵器を根絶すべき。今後、戦争が起こらないことを願う |
| 48 | おいしいご飯を食べ、子どもが毎日安心して生活できる平和が続きます様に。 |
| 48 | 戦争によって尊い命を失われた方々、そして私たちの暮らしの安全と秩序を守るために殉職された警察官の皆さまに、深く感謝と哀悼の気持ちを捧げます。 今、私たちが穏やかに暮らせているのは、数えきれないほどの犠牲と献身のうえに成り立っていることを、いつまでも心に留めていたいと思います。過去の悲しみを繰り返さないために、戦争の記憶を語り継ぎながら、命の大切さや平和のありがたさを学び続けることが、私たちにできる大切なことだと思います。 平和は、ただそこにあるものではなく、みんなで大切に育てていくもの。 その思いを胸に、優しさと希望を持って、これからの未来へ歩んでいきたいです。 |
| 48 | 私たちは戦争を知らない世代であり、私の両親も戦後生まれです。私が戦争を知ったのは、たまたま祖父の肩にあった銃弾の傷跡を見たのがキッカケでした。その銃弾は肩から脇の下を貫通した事、その時に同じ隊の方が振り返ると亡くなっていた事、戦地での厳しい生活の事など、自分の置かれている生活環境からは想像できない話でした。また、当時の気持ちを祖父に聞いたところ、「生きて帰ってこれないと覚悟していたから怖いとは思わなかった。生き残ろうと人の背後に隠れようとした人はだいたい亡くなった。自分は死を覚悟していたから運よく生き残れたのかもしない。」と語っていました。祖父は多く語らない人でしたし、弱音を吐かない我慢強い人だったため、その言葉が本心であったか定かではありませんが、本当は恐縮もあっただろうし、死というものと常に向き合いながら生活していたその精神状態は私の想像の範囲を超えていたであろうし、私には到底耐えられないなと思いました。当時の話を実際に戦争を経験した祖父から聞けた事は大きな財産であると同時に、戦争は祖父のように命を捨てる覚悟をさせ、その家族や大切な方が苦しみ、悲しむことになるのだと理解しました。二度と戦争を繰り返さないために戦争を知らない私たちは戦争の意味をしっかり理解し祖父から聞いた話を交世代に伝えなければならないと思っています。 |
| 50 | 戦後80年という節目に、私たちは過去の痛みと犠牲を胸に刻みながら、未来へつなぐ平和の願いを新たにします。戦争の恐怖と悲劇を次世代へ語り継ぎ、「対話」と「共感」をもって相互理解を育む社会を築こう。核なき世界を願い、一人一人が手を取り合い、尊厳と生命を大切にする未来を共に歩みたい。 |
| 51 | 戦後80年で実際の戦争を知らない人間がほとんどとなってきている。しかし、世界に目をむけると色々な場所で戦争が勃発し悲惨な状況が発信されている。日本ではそのようなことが起こらないことを願い、自分が出来ることをしていくしかないと考える。 |
| 51 | 戦争なく平和な世の中になってほしい。子どもたちの未来が平和で幸せなものになるよう。 |
| 51 | 戦争なんかいらない 武器なんかいらない 戦車なんかいらない 戦闘機なんかいらない ミサイルなんかいらない 核兵器なんかいらない 戦争なんかいらない 兵器をたくさん持ってる国が強いんじゃない 兵隊がたくさんいる国が強いんじゃない 弱いから戦争するんだ 戦争なんかいらない |
| 52 | 今も自然現象による災害や、事故や事件、そうでない災害など、こわいことがたくさんあります。こわいことだらけの中で、一番こわいのがにんげんではありませんように、と思います。 |
| 52 | 先人は多くを語らず、後人は多くを知らず、この平和が永遠に続くと勘違いし日々を過ごし、他国の干渉に怯え慄く。今一度、良くも悪くも本当の近代日本史を鑑みる時ではないだろうか。と戦中を生き記憶のある先人が少なくなってしまった戦後80年の節目に想う。 |
| 52 | 平和こそ人が幸せに生きるための根元 |
| 52 | 戦争、もちろん私も経験したことはありません。ですので奇麗事の言葉を述べようとは思いません。私たちには当たり前に毎日がやってきます。家族がいる、大切な友たちや恋人と過ごせる、食事ができ、入浴でき、布団で寝れる、その上、遊んだりスポーツしたり音楽を楽しんだりできる。今の私たちはこの当たり前の毎日がまさか壊れるとは思ってもないと思います。でも、この当たり前が戦争中にはなかった…この当たり前は当たり前ではなく、平和だから味わえるんです。私は音楽の仕事をしてたくさんの人と関わっております。戦争を経験されたお年寄りもおります。皆さんと歌を歌ったり音楽ができること、これはこの上なく平和で幸せなことであると心に刻み生きていきたいと思います。そしてこの今の平和も、過去のたくさんの人たちの思いや願いがあっての平和であることを忘れないようにしたいと思います。 |
| 53 | 原子爆弾が投下されたから、日本は戦争をやめることができた---というようなアメリカプロバガンダに負けず、核を投下したアメリカの責任を日本の政治家が追求できるくらい、平和の本質を語れる日本になってほしい。 |
| 54 | 戦争反対 |
| 54 | 戦争の経験はありませんが、毎日流れるテレビニュースでガザ地区の様子に心痛めています。戦いからは何も生まれない。尊い命があっけなく奪われる事実に驚愕の思いです。一日も早い戦争終結を心より祈ります。 |
| 55 | 今の生活に感謝するこころを忘れない |
| 55 | 毎年この時期になると、戦争のドラマ等があり視聴するが、その度に平和への思いを再確認している。 |
| 55 | 先の大戦の教訓を今後の強力な国家造りに活かしてもらいたい。そして、二度と戦争に突入して行かない外交努力を国の指導者に強く望みます。 |
| 55 | 最近だと朝ドラの「あんぱん」で戦争体験とその思いを演じる場面があり、戦争が終わってから何年何十年経ってもその時のつらい思いは消える事無くずっと苦しい思いとして残るという事を感じた。戦争は、いつの時代においてもやってはならないことだと思う。 |
| 55 | 第2次世界大戦中、祖父が現在の高等学校に勤めていたようで、その時に空襲でたくさんの生徒の尊い命を失ったことがあったそうです。その悲痛に加え、祖父は立場上、戦争を推し進めたという罪で公職追放となり、一家でとても貧しい生活を何年もすることになったそうです。仕事を追われ、祖父は生きるためにたくさんの財産を失ったようで、もちろんそれらはもう返ってくることもありません。今年は悲しい節目の年ですが、戦争という悲劇がひとたび起きると、このように80年もの間、癒されることのない痛み、悲しみ、そして苦しみをもたらすのだということを私たちは決して忘れてはなりません。人間の英知はなぜ「平和」のためだけに注がれないのでしょうか。その愚かさや過去の悲劇から目をそらすことなく、だれもが真の平和を求め合い、全ての命が温かく育まれ、天寿を全うできる地球であり続けてほしいと切望しています。 |
| 56 | 日本が経験した戦争の悲惨さは、文献や過去の映像等でしか知ることはできないが、想像を絶するものであり、人間の尊厳、命の尊さを考えさせられる。平和は当たり前に継続するものではなく、相当の努力が必要である。現在も、引き下がることのできない主義、主張を発端に始まった戦争で、何の関係のない子どもたちが犠牲になることは、全くの理不尽である。当事者や関係機関が自らの身を切り解決する努力をすべきであり、何の関係もない人を巻き込むことは許されない。一刻も早く平和的解決に向かうよう願っている。 |
| 56 | 自分自身は直接的には経験していないが、当時の人たちは本当につらかったと思います。家族のことを思うと胸が切り裂かれる思いです。2度と戦争を起こさない、平和を守り続けるために、他人事にせず、自分事として受け止めたい。 |
| 56 | 戦争体験者が減る中でも、平和への願いを受け継ぎ、語り継ぐことで平和への思いを薄れさせずに未来へつなぎたい。 |
| 56 | 私は実際に戦争を体験してませんが、まだいろいろなところで行われています。私には、戦争をする意味がわかりませんが、今、日本は戦後80年なのでこれからも、戦争がない未来を願います。 |
| 58 | 遺族から聞いたことです。戦争が終結し、軍務が解かれた兵士が故郷へ帰る途中で捕まり、拷問を受け、大勢が収容されている所で亡くなった。妻と小さい子だけが日本に帰ってきたと。戦没者ではないが、戦争さえなければ亡くならなかった。戦争が終結した後にも尊い命を失われた人がたくさんいたと。このようなことが二度と起こらないよう平和であることを願います。 |
| 58 | 祖父・祖母(母の親)は、戦後、幼い子どもにはお湯で澄ました汁の身が入ったものを飲ませ、自分たちは汁だけを飲んでいた、と聞きました。祖父は、それで遠くまで歩いて家具の大工仕事をに行っていましたが、栄養失調で倒れたこともあったそうです。たとえ貧乏でも、歯を食いしばって働いて、幼い子どもたちを慈しんでいた親の愛情はとても深く、戦争は絶対にいけないものだと思いました。また、そんな親も亡くし、差別に耐えながら生きてきた当時の子どもたちの深い悲しみにも同情を禁じえません。今、世界各国で紛争があり、悲しい思いをされている方がたくさんいると思います。早く紛争が解決し、少しでも笑顔を取り戻せることを切に願います。 |
| 59 | 私の娘が、この国を守りたいという思いから海上自衛隊に入隊しています。今の平和な状態が続き、娘が戦地に行くことがないよう願うばかりです。 |
| 40 | 当時小学生であった祖母から学校の校庭で芋を育てていたと聞きました。子どもたちの明るい未来のための学び舎が戦争のために使われていたと知り衝撃でした。戦争で失うものは多いけれど得られるものはありません。 |
| 42 | 戦争の体験談を話してくれた祖母も今年で97歳になりました。飢えの苦しさや恐怖がその時代を生きた人に残した心の傷は大きかったと思います。私も祖母から聞いた話をしっかりと自分の子どもに伝えていきたいと思っています。現在も世界のどこかで続く戦争を決して他人事にせず、今の平和な社会の有難さを忘れずにいたいと思います。 |
| 44 | 某ドラマで、戦争に関する場面の時に、「愛する国のためでなく、愛する人のために死にたい」といったセリフがあった。戦争は、日々のささやかな幸せさえ奪い去ってしまう恐ろしいものだと、改めて感じたセリフだった。私たちの世代は、戦争の恐怖に怯えながら、暮らすといったことはなく、恵まれた環境の中で日々暮らすことができて、ありがたさを感じている。そんな中でも、戦争の苦しみや悲しみを忘れてはならないと今年は特に感じる年となった。無力な個人では平和を祈ることしかできないが、今後は世界の人々が温かく自由でのんびりと暮らせる世の中になってほしいと切に願っている。 |
| 45 | 日々、何気ない日常を送れていることが当たり前で、当たり前でないことだと感じています。平和な日々が子や孫、その先もずっとずっと続くことを心よりお祈りします。 |
| 46 | 尊い犠牲の上にある平和を胸に刻み、戦没者や殉職者なき未来を祈念いたします |
| 46 | 世界的に、平和を希求しそのための努力をする機運がへし折れている。我々が生きるこの世界にかつての地獄を顕現させないためには、王様のようにふるまう大統領を求めてはいけないし、隣国を侵略してはばからない指導者を肯定してはいけないし、植民の野望のために減にそこに住んでいる人間の虐殺を許してはいけない。そして、それに加担している現実から目を逸らしてはならないし、いずれ我が国がその主体となってしまう可能性を許してはならない。 |
| 47 | 今年8月に公開された映画『雪風 YUKIKAZE』の製作にあたり、プロデューサーが、太平洋戦争当時、実際に駆逐艦に乗艦していた元電信員の今井桂さん(丹原町)からのコメントを聞いたそうだ。その話を耳にしたので、映画を見た。映画の中で「20年後、どんな世界になっているだろう」「孫を抱いて、みんなで夕食を囲み、笑ってその日を過ごすことができる、普通の毎日がくればいい」というようなやりとりが印象に残った。私達が今平和に暮らすことができるのは、戦争で悲しい・辛い思いをした人達が記録や記憶としてつないでくれくれてきたからこそだと思う。戦争を実際に経験することがなくても、私達は次世代に繋いでいく義務があると思う。 |
| 49 | 互いを思いやり、尊重しあう世の中にしたい。 |
| 50 | 平和への思いを胸に、私たちは日々の暮らしの中で互いを敬い、対話や共感を旨としたい。あの戦禍の記憶を忘れず、これからも、未来の子どもたちが希望を抱ける社会を目指すこと、それが私たちの使命ではないか。 |
| 51 | 世界中のすべての人が悲惨な戦争経験をしなくていいような平和な世の中になりますように。 |
| 51 | 祖父が生前、戦地の体験談を語ってくれたことがあります。祖父から戦争の話を聞いたのはその1度限りでしたが、今でもはっきりと覚えています。幼いながらに祖父の苦労と戦争の悲惨さを感じました。過去の戦争を教訓とするためにも、祖父の話しを自身の子供にも伝え、平和な世の中が続くよう願っています。 |
| 51 | 亡くなった祖父も従軍していたそうです。弾薬庫の守備隊員を担っていたとのこと。もしそこで、祖父が亡くなっていたら戦後に生まれた私の父親も生まれず、私も誕生しなかったことに・・・。第2次世界大戦が無ければ、誕生出来たであろう生命が誕生しなかったことを考えると、如何に現在の平和な状況が恵まれていることなのか改めて認識し恒久平和を望み続ける必要性を感じた。 |
| 51 | 当たり前に隣にいた人がいなくなる。なんて思いをしないために平和への思いを込めて祈りたい。 |
| 51 | 戦争反対 |
| 51 | 戦争のない世界を作っていきたいですね |
| 53 | 戦争は最大の人権侵害です。戦争をせずとも人間の尊厳が守られる世界になることを願います。 |
| 53 | すっかり年老いたが、今も健在の実父は、幼少期に外地で先の大戦による戦禍を被った。夜間の空襲に備えて防空頭巾やリュックサックを枕元に置いて寝ていたこと、敗戦後に収容所で死と隣り合わせの生活を強いられたこと、命からがら乗船した引揚船の中で多くの人たちが栄養失調で亡くなっていったことなどを、私が少年期のときに聞かせてくれた。その想像を絶する、筆舌に尽くし難い実父の悲惨な体験に、平和と豊かさの中で生まれ育った私は言葉を失うばかりであった。体験を語った後、「戦争は怖いんよ。」とつぶやいた実父の姿が、今も脳裏に鮮明に焼き付いている。私にとって戦争の恐ろしさと愚かさ、そして平和の尊さは、実父のこの一言に凝縮され、また、尽くされており、生涯忘れられない一言でもある。 |
| 54 | ウクライナやガザ地区では、考え方の違いだけで戦闘が続いている。考え方の違いを受け入れ、相互理解をすることで共生できる世界になってほしい。 |
| 54 | 人間は弱いもの。弱きは暴力に依存する。真に強きは暴力に屈しない。真の強さを求め、自らを奮い立たせ祈りたい。 |
| 54 | 戦後八十年を迎える今、私たちは、我が国の将来を想い、家族やふるさと、そして平和を守るために尊い命を捧げられた方々の犠牲を決して忘れてはなりません。その崇高な思いの上に、今の平和と豊かな暮らしがあります。戦争の悲しみを二度と繰り返さぬよう、命の尊さを胸に刻み、互いを思いやり、希望に満ちた未来を次の世代へ引き継いでいく必要があると思います。 |
| 54 | 縄文の時代のように、争うことなく、みんなが自然を大切にし、みんながみんなを大切にする日本になりますように! |
| 54 | 必要な検討・準備をし、現在の平和を維持していく責任がある。 |
| 54 | 小さい頃に、祖父から聞いた今治空襲の話は、私の心に深く残っています。戦争というと広島や長崎の被害がよく知られていますが、今治でも多くの人が命を失いました。祖父は目が悪かったため、招集されずに済んだのですが、亡くなった多くの方の慰霊にたずさわりました。とても悲惨で残酷だった現場の話は小さい私にはとても辛いものでした。戦争は遠い出来事ではなく、私たちの町や家族の歴史にも深く関わっています。恐怖や悲しみの記憶を忘れず、二度と繰り返してはいけません。今、平和な日々を過ごせることに感謝し、未来のために平和を守り続けたいと思います。 |
| 55 | 朝ドラにもそんなシーンがありましたが、戦争中は戦いで亡くなった兵士がたくさんいますが食べるものがなくて死にかけた兵士、亡くなった兵士もたくさんいます。私が生まれてから今日まで、日本は平和です。子や孫もずっと、平和に暮らすことができるよう、2度と戦争をするべきではありません。 |
| 55 | 戦争があった事実を風化させることなく次世代へ繋ぐ! |
| 56 | 今は本当に戦後なのでしょうか?近い将来、今が、次の戦争の戦前になるかもしれないことを、私たちは忘れてはなりません。 |
| 57 | ドラマや映画、戦争体験談を見聞きするなかで「平和」であることの尊さを強く感じています。日本だけではなく世界中が平和であることが「幸福」であるための基本であると思います。 |
| 57 | 戦後80年、私たちは多くの犠牲の上に今の平和を築き、その恩恵を享受してきました。その事実を忘れることなく、命の尊さと平和のありがたさを次の世代へ語り継ぐことが今を生きる私たちの責任だと思います。 |
| 57 | 戦後80年、私たちは、改めて先の大戦で尊い命を捧げられた戦没者の方々に心より哀悼の意を表します。平和な今日があるのは、祖国と家族を思い亡くなられた多くの犠牲の上に成り立っています。この悲痛な歴史と戦争の教訓を決して忘れず、恒久平和への誓いを新たに、未来へと語り継いでいくことに努めます。 |
| 58 | 世界各国では、未だ戦争が絶えない状況でありますが、戦争や争いのない平和な世の中が訪れるよう、心を1つにしていきたいと思います |
| 58 | 亡くなった祖父は満州事変で中国に赴任となり、左脚に銃弾の跡がありました。息も絶え絶え、何とか日本に帰国できたと話していました。とにかく食には厳しく、「出された食事、特にお米は絶対に残してはならない」と、幼き頃に大変口酸っぱく教えられたことを記憶しています。戦時中に自分も厳しい食生活を送ったのだろうと今思えば感じずにはいられません。『温かい食事が当たり前に食卓に並ぶこと』、実は当たり前ではないことを今起こっているウクライナ戦争や他国の紛争から学ばないといけないと思うとともに、何を持って『平和』と言えるのか、真剣に議論すべき時代になったと思います。 |
【60~70代】の方々からのメッセージ
| 年齢 | メッセージ |
|---|---|
| 63 | 人権学習の中で、「戦地から帰ってきた父親の骨壺の中には、木切れが1本入っているだけだった」、という話を聞き衝撃的だった。「ほかにも、石ころが一つ入っているだけの人もいた。」と。「人権を踏みにじられた思いがした、父親との思い出はない。」、と悔しそうに声を詰まらせながら語られた。また、戦後80年、平和学習の中で国連193加盟国の内、第2次世界大戦後に戦争をしていない国は日本を含め8か国だけだと学び、驚いた。知ること、語り伝えることの大切さや意義を感じ、正しく知り理解できたことは発信していこうと思った。 |











【80代】の方々からのメッセージ



















【年齢未記入】の方々からのメッセージ














