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西条祭りが紡ぐ絆と縁/西条まつり 祭りびとの想い(5)

ページID:0068473 更新日:2016年10月26日更新 印刷ページ表示

某所在住/会社員 年齢不詳 ハンドルネーム:映画館は大劇ミリオングランド、ボーリングは西条イレブン朝日 さん

祭りびと五番
(松並木や木の電柱が残る、加茂川河川敷にて〈昭和39年〉)

西条祭りの最初の記憶はただただ怖かった。みこしが異形のものに見えて今にも襲い掛かってくるようで怖かった。

幼稚園に行くようになるとそんな事もなくなり、秋の楽しみとなってきた。

小学生ではたぶん今でも続いているだろうが、黒板の片隅に「西条祭りまであと◯日」というカウントダウンが書かれるようになり、先生方の中には興がのると授業そっちのけで祭りの思い出話をしてくれる方も多くいた。

中野一番だんじりが喧嘩で壊れて出なくなり、番号札が楠2 番から始まる謎(昭和40 年代)や上喜多川だんじりの水引幕に紋も刺繍も入っていない頃の話など夢中になって目を輝かせて聞いていた。


小学生も途中からは子供だんじりを舁(か)くようになった。

当時は15 台ほどの子供だんじりが出ており、きちんと番号札も出て奉納していた。それらの子供だんじりは今は大人のだんじりになっている。 

東町二丁目子どもだんじり
(アスファルト舗装の東町アーケード街を運行する、東町二丁目子どもだんじり)

ノーエ節は小学校の授業の中で黒板に先生が書いて男女児童みんなが覚えた。今にして思うと♪三島女郎衆はノーエ、なんて歌詞を深く考えず女の子も大きな声で唄っていた。

中学からは大人だんじり、ここでそれまで難解で大人の祭り唄と感じていた伊勢音頭を覚えた。ちょっとだけ大人に近づいたようで嬉しかった。

高校生からは舁く主力になってきた。
ただ当時は自分の町内にはだんじりが無く、だんじりを持っている町内に登録して舁いていたのがちょっと残念で悲しい思いもあった。大人だんじりが30 台後半位の頃だ。


進学して西条を離れても当然のように授業より祭りを優先し帰省した。授業の中には休むとそれだけで点数や成績が悪くなるものもあったがお構いなしだった。

就職してもそれは変わらなかった。数か月前から周到に調整するなど、あの手この手を尽くして仕事を休んでは祭りに帰省していた。

こう人生を振り返ると、西条祭りが無ければ数年に一度か、それ以上に西条には帰って来なかったとつくづく思う。言葉も西条弁を忘れて現在住んでいる場所の言葉になっていただろう。今でも西条に帰った途端に西条弁に戻れる自分を嬉しく思う。

祭りでは歩きに歩きますから、そこここで懐かしい知人や古い友人に出会います。

そんな人達と石鎚の山を始めとする変わらぬ風景と新しく出来た店や街の変遷などの変わる風景、それらの絆や縁を結び紡いでくれる西条祭りは人生の宝物です。


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