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水の歴史館 黒瀬の記憶 1.黒瀬の今昔(3)

ページID:0002742 更新日:2015年1月15日更新 印刷ページ表示

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黒瀬の記憶

1.黒瀬の今昔(3)

 学校については、早くから光昌寺(こうしょうじ:お観音さん)には寺子屋がありました。明治10年(1877)5月には遷喬(せんきょう)学校が開校し、明治19年(1886)の学校令により黒瀬簡易小学校となりました。明治25年(1892)には黒瀬尋常小学校が東校舎付近に建てられ、第二次世界大戦後に黒瀬小学校となりました。昭和23年(1948)東校舎、昭和27年(1952)災害復旧の国庫補助と起債によって、本校舎の建築や運動場の拡張等が併せて行われました。昭和38年(1963)5月1日の児童数は56名、教員が4名で2学級ありました。創立から閉校となる昭和45年(1970)3月までの78年間の卒業生は、1,391人にも上っています。
 当時、小学校の建築は地区の負担で行い、その負担が過重であったため、次の改築に備え、地区住民の負担を軽減するため、明治30年(1897)ころから昭和31年西条市に合併するまでの間、学有林の造林が、地区住民の勤労作業によって行われていました。昭和27年には、この学有林の立木伐採代金で黒瀬集会所が建築されました。

 昭和27年(1952)の兎之山発電所建設に際し、従来からあったカマモ堰、ススガセ堰、中洲堰を統合し、ススガセ堰を完全なものとし、併せて幹線用水路から末端までのコンクリート工事を行ったため、それ以降、毎年の水路維持管理の経費が極めて少なくなりました。
 また、大保木村の水稲は秋落現象(あきおちげんしょう)(注1)が激しく、毎年8月ごろから急に悪くなり、胡麻葉枯病(ごまはかれびょう)やイモチ病が発生し、収量は平坦地の約50%以下という状況でした。そこで、昭和28年から29年にかけて、黒瀬・兎之山地区と大保木の水田の一部に大規模な客土(きゃくど)(注2)を行った結果、平坦地と同じ程度の収量を上げるまでになりました。

(注1)秋落現象・・・秋になって予想より収穫が少ないこと。
(注2)客土・・・ある土地に土壌改善等の目的のために他所から土を搬入すること。

黒瀬小学校の写真1枚目黒瀬小学校の写真2枚目
黒瀬小学校

水没前の黒瀬小学校の黒板に書かれた1年生の作文「黒瀬小学校さようなら」の写真
水没前の黒瀬小学校の黒板に書かれた1年生の作文
「黒瀬小学校さようなら」

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