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水の歴史館 川の歴史-渦井川

ページID:0070162 更新日:2015年1月15日更新 印刷ページ表示

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川の歴史-渦井川

渦井川は、その源を石鎚山脈に連なる黒森山に発し、急峻な山地を北に流下して、新居浜市と西条市の境界付近で中流域の平野に至り、西条市東部の平野を西流し、西条市玉津付近で最大の支流、室川を合流して流れを北方に転じ、燧灘に注ぐ、流域42.2km2、幹線流路延長12.8kmの二級河川です。
 藩政時代、大生院・萩生・半田・上島村の各村は、1万石小松藩の飛地で、藩領内にある渦井川の灌漑用水をめぐって利権がからみ、井堰・さけ川井手で水利紛争が発生しています 。
 現在は、ため池や揚水機の整備などによって安定した灌漑用水の供給が図られ、水争いの記憶は徐々に薄れてきています。平成17年6月の渇水期には水不足で農作業に支障をきたし、かつての苦労が思い出話として語られています。

渦井川流域の図

■上・下ノ井堰の築造

 上ノ井堰(一番井堰)は、大生院村字川口に設けられています。築造を知る資料はありませんが、字川口にある正法寺の歴史的由緒からみて、奈良時代ともいわれていますが明瞭ではありません。この井堰から疎水したさけ川井手を二条に流し西岸地域の灌漑用水となっています。
 下ノ井堰(二番井堰)は、上ノ井堰の下流50間(約100メートル)のところの字栗林に設けられています。この築造については、元禄6年(1693)河東の川除普請を藩庁へ願い出ている古文書が高橋庄屋にあり、その後天保11年(1840)7月、本村・喜来両百姓惣代より、庄屋高橋大助に願書が出され、築造されたものと思われます。

上・下ノ井堰の築造の図

大生院村庄屋「高橋文書」の画像

 この文書でみる限りでは、当初は用心水であり、余り水が下へ少しもなくとも、先々まで銘々に申し伝え、申分は言いません、と記されています。 明治になって灌漑用水の水利慣行が次第にでき、紛争が始まっていきました。

高橋文書(新居浜市広瀬歴史博物館蔵)の写真
高橋文書(新居浜市広瀬歴史博物館蔵)

■渦井川上・下堰の紛争と解決の概要

年号 上ノ井堰(一番井堰)側 下ノ井堰(二番井堰)側
明治10年 井堰の用水路に天然石を漏留のため据え込み改修  
明治17年   改修に抗議し県庁へ陳情。
西条治安裁判所へ勤解を請求。松山地審裁判所への出訴・勝訴の見込みなく断念。
明治33年 明治32年災害の井堰改修工事完了 上ノ井堰工事の中止を求めて上申書を県に提出
昭和10年 井堰改修工事は県が監督のもと完成 上ノ井堰改修工事に反対し、2回にわたり破壊の暴行を行う。
昭和12年 大生院村渦井川水利協定が県耕地課長立会いの上成立する  
昭和35年 新居浜・西条両警察官出動未然に防止  
昭和53年   住友泉水利組合の控訴。高松高等裁判所より判決言渡し(多年の慣行を尊重すること、暴力行為禁止)敗訴

○水争い関係の新聞記事(愛媛新聞)

水争い関係の新聞記事(愛媛新聞)昭和37年6月6日
▲昭和37年6月6日

水争い関係の新聞記事(愛媛新聞)昭和40年6月6日
▲昭和40年6月6日

■新居浜のむかしばなし

 大生院の真ん中を流れる渦井川は、徳川幕府の藩政の頃から「水げんか」の話が伝えられています。
 雨が多くて水のたくさんある年は静かで、何事もないのですが、干ばつが続くと「せき」を破壊して流血を見るほどのけんかになります。
 昔、庄屋さんが娘の嫁入りに当たって、渦井川の水をつけてやったと言われています。
 渦井川の西を流れる「鮭川」の水を縁者となった飯岡に流すようになりました。要するに持参金のようなもので、しかも大生院に4分、飯岡に6分の水量を流しました。
 日照りが続くと、鮭川の「古堰」におおぜいの人が集まり,鍬や鎌を持って争いました。その後、双方より水頭が出て水の当分について決め、日夜番人をつけて水を分けたと言われています。
 現在では、岸影の方にも水源地ができ、地下水の利用に伴って水争いも次第に解消されました。古老の話によれば、水けんかは年中行事で、けがをしたり、仲たがえをした人もたくさんいました。そう古い話でもないのに、今は桜の名所として人々が集まり、花見やもち投げなど、世の移り変わりを感じると言われていました。
                                  《 大生院 曽我部 明光 談 》

■さけ川井手

さけ川取水口の写真 渦井川川口付近の写真
▲さけ川取水口 ▲渦井川川口付近

さけ川井手は、上ノ井堰から大生院西部地域の銀杏木付近を疎水して、桜木川に至る井手と自然の流れに添って疎水し、下島山・半田から浪多川に至る井手の二条があったと『新居浜市誌』にも記されており、そう推察されます。
 その後、豊臣時代伊予国20万石(宇摩・新居2郡の3万石を含む)を受封した加藤佐馬助嘉明時代、慶長5年(1600)~寛永2年の間に、上島山・半田井手が室川まで疎水したと『高橋文書』から解されます。
 また、『高橋文書』によると、寛文4年(1664)上島山・半田両村の要望により、小松藩庁が仲介斡旋して釜之口から従来の井手の下手に新たに井手が開設されています。
 番水については、字川口の釜之口で厳しく水管理が行われ、承永3年(1654)6月29日に小松藩庁から大生院村庄屋へ「さけ川の井水分散の覚」が渡されています。その内容を図解で示すと下図のとおりで、大生院村にとっては不利な規定でした。
 その後、何度か変更があり、いつの頃からか4分6(銀杏木4分、上島山・半田6分)に配分されるようになりました。

図100 承応3年6月29日さけ川之井水分散の覚、加藤嘉明時代より承応3年6月28日まで さけ川番水

■さけ川の水論

 さけ川は非常に水の少ない井手でありながら、上島山・半田井手は古くからの支配者の要請、庄屋同士の姻戚関係の義理合い、藩庁より「井手分水覚書、水盗みの注意、新井手掘り」の強要等から、大生院村の水の過半数を他村へ分水する慣行となり、同村内を通る上島山・半田井手の水は大生院は一切使用できず、ただもれ水のみで、水害には井手の周辺の田地は川成(田地が川になる)と化し、大生院村は「新井手掘りに対して断固反対の訴え、水不足の訴え、番分不利の訴え、番水米滞納の訴え、川成普請の要求 」等藩庁に対し抗議したことが『高橋文書』から窺えます。

水利権【許可・慣行】 (PDF 55KB)

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