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新幹線生みの親 十河信二

ページID:0078188 更新日:2023年5月26日更新 印刷ページ表示

西条市長を経て国鉄総裁へ。東海道新幹線の建設を実現

十河信二

十河信二氏

十河 信二(そごう しんじ) 1884~1981 

新居浜市中萩出身、愛媛県尋常中学校東予分校(現西条高等学校)卒。日本の鉄道官僚、政治家。

戦後の混乱期に第2代西条市長を務められ、市政の進展に尽力されました。

その後、昭和30年に第4代国鉄総裁に就任(在任1955~1963)。
その熱い情熱と卓越した手腕で、当時は世界中に前例のない一大プロジェクトであった夢の超特急東海道新幹線の建設を実現し、「新幹線の生みの親」と知られています。西条市名誉市民第一号。          

※画像:産経新聞社撮影

 

十河 信二氏 略歴

年号 西暦 主なできごと
明治17年 1884 4月14日、愛媛県新居郡中萩村大字中村に十河鍋作・ソウの二男として生まれる
明治30年 1897 愛媛県尋常中学校東予分校東予分校(現・愛媛県立西条高等学校)に入学
明治35年 1902 西条中学校卒業・第一高等学校入学
明治38年 1905

東京帝国大学法科大学政治学科入学
東京音楽学校在学のキクと結婚

結婚

明治42年 1909

東京帝国大学卒業
鉄道院に入庁、書記に任命される

鉄道院時代(中央が十河氏)

大正6年 1917 アメリカ留学
大正12年 1923 関東大震災を受け、帝都復興院に書記官として出向。後藤新平らと復興事業に携わる。
昭和5年 1930 南満州鉄道の理事に就任
昭和6年 1931 満州事変
昭和10年 1935 国策会社興中公司の社長に就任
昭和12年 1937 林銑十郎内閣組閣。参謀長に就任し、中国の経済発展に寄与
昭和13年 1938 参謀長を辞職
昭和20年 1945

第2代西条市長就任

故郷西条のためにやるのであるから、報酬は一切受け取らないという条件だった。

昭和21年 1946 西条市長を辞任し、鉄道弘済会会長・日本経済復興協会会長就任
昭和30年 1955

国鉄の洞爺丸・紫雲丸事故を受け辞任した、第3代長崎惣之助総裁に代わり、第4代日本国有鉄道総裁となる

相次ぐ事故で国鉄の信用は地に墜ちていた。71歳で就任した十河には「鉄道博物館から引っ張りだされた古機関車」との酷評もあったが「最後のご奉公と思い、赤紙を受けて戦場に行く兵士のつもりで、鉄路を枕に討ち死にの覚悟で職務にあたる」という挨拶をして引き受けた。

昭和31年 1956 東海道線増強調査会設置
昭和32年 1957

国鉄組織改正
幹線調査会、運輸大臣に答申1号「東海道に新規格線建設の必要性」を提出

自らは政治的手腕をふるい、広軌化を実現。技術者の島秀雄とともに新幹線建設計画を主導・推進した。

昭和33年 1958

新幹線建設基準委員会を設置
東京~大阪・神戸間を、国鉄初の電車特急「こだま」が運転開始

こだま号テープカット

昭和34年 1959

東海道線東京・大阪間線路増設工事の認可申請
東海道広域新幹線の起工式を新丹那トンネル熱海口で挙行、東海道新幹線着工

新幹線起工式

昭和36年 1961

浜松付近・名古屋・関ヶ原間ルートの運輸大臣認可が下り、新幹線全ルートが決定

鉄道省出身佐藤栄作大蔵大臣のアドバイスを受け、世界銀行から融資が決定

世界銀行から融資決定

昭和37年 1962 新幹線開業準備委員会設置
昭和38年 1963 任期満了に伴い国鉄総裁を退任
昭和39年 1964 10月1日、新幹線開業
出発式を自宅のテレビで見守る
昭和44年 1969 西条市初の名誉市民となる
昭和48年 1973

東海道新幹線の東京駅18・19番ホーム先端に東京駅新幹線建設記念碑が建立

昭和56年 1981

10月3日、97歳で大往生で亡くなる

写真:無断転載を禁じます。

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