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広報専門員の気ままに西条歩き Vol.20多賀地区(前編)
地域のウォーキングレポート第20弾
このコーナーでは、西条市の広報専門員 日野が、市内の校区を一つずつ歩いてレポートしています。
2018年8月30日(木曜日)晴れ
朝晩涼しくなって夏の終わりを感じるものの、まだまだ暑い日。東予地区沿岸部の多賀地区を歩きました。
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人口5,647人。西条市東予地域の南東部に位置する。多賀地区は、JR壬生川駅前商店街を含む市街化された商業地域と、北条の広い穀倉地域を含む農業地域、北条新田の埋め立て地に誘致された工業地域の3つに大別される。
まち歩きには、市より発行の「西条市ウォーキングマップ」を利用しています。今回のコースは、商店や公共施設、住宅が立ち並ぶ市街地です。
多賀地区史跡めぐりウォーキングマップ [PDFファイル/717KB]
「おはようございます~!」
国道196号から少し住宅地へ入ったところにある多賀公民館に到着。
迎えてくれたのは、森川 厚 館長と、主事の村上 千鶴さんです。準備万端の館長と、まち歩きにレッツゴー。
早速見つけたのは、金比羅街道の道標。「こんぴら大門へ二十里」と彫ってあります。
松山から香川の金刀比羅宮(こんぴらさん)まで、このような道標は数多く見られ、これまでのまち歩きでも何度か遭遇したことがあります。
「HONDA」のOだけが残ったレトロな看板の自転車屋さんなどがある通りを少し進みます。
すると、チェックポイント1の貴妙院(きみょういん)に到着します。こちらは住職さんがいらっしゃらないので長居はせず、次のポイントへ。マップで見るとこのあたり。
チェックポイント2 碧泉寺。
西条市ウォーキングマップより抜粋
気になるのがこちらの木彫りのフクロウ。住職さんが集めてるのかな?
境内にお邪魔すると、住職6年目という若いご住職が迎えてくれました。
フクロウなど数々の木彫りの人形は、前のご住職(お父さん)の趣味の「チェンソーアート」によるものだそうです。
チェンソーアートとは、一本の丸太からチェンソーを使って彫刻するアート。細部はチェンソー以外も使って彫るらしいのですが、荒々しいイメージのチェンソーからこんな繊細な彫刻ができるとは驚きでした。
フクロウのほか、犬やベンチもありました。歩かれる際はぜひ寄ってみてくださいね。
この猫ちゃん、名前は「ミルちゃん」。
まだ1歳に満たないんだそうです。気持ちよさそうにウトウトしていました。
そしてすぐ近くにあるのが「鶴岡八幡神社」と「大氣味神社」。
鶴岡八幡神社は、主に多賀地区の氏神様です。
日野:「鶴岡八幡神社、って鎌倉にある有名な神社ですよね。これって鎌倉と関係があるんですか?」
館長:「そうなんです。鎌倉時代、源氏とこちらは関わりがありました」
「多賀郷土史」に、このような記述があります。
鎌倉時代、源氏・北条氏と朝廷側が戦った「承久の乱(1221年)」がありました。朝廷は敗北し、幕府は西国の三千以上の領地を得ます。その一つがこちら、ということのようです。
館長:「多賀という地区の由来は、鎌倉時代にこのあたりを統治していた『多賀谷氏』なんです。多賀谷氏も東国の御家人なんよ」
日野:「承久の乱で勝利したことをきっかけに、こちらに東国の人たちや寺社がやってきたということですね」
同じ境内の中に「大氣味神社」。東予で有名な喜左衛門狸の人形がいます。
こーんな大きな喜左衛門も!
案内板によると
今年惜しまれつつ閉店した地元銘菓「たぬきまんじゅう」も有名ですが、喜左衛門狸が愛されている証ですね。
崩口(これくち)川にかかる「鶴岡橋」が見えてきました。
橋を渡らず川下へと少し進みます。
するとチェックポイント3 お船停(おふなて)。
館長:「ここは昭和30年代までその名の通り船が停まる港やったんよ。藩政時代、小松藩が年貢米を運ぶのに使いよった。
昭和の時代になっても、今治の大島や伯方島への“島通い船”の往来が頻繁にあったらしいです。
でも昭和21年の南海大地震で地盤が沈下し、25年、26年の台風で崩口川の堤防が決壊。昭和30年には護岸のかさ上げ工事により、こちらへの湾の入口が閉鎖されました」
日野:「最近も台風で川がダメージを受けてますが、昔は今より復旧が大変そうですよね。
あと、しまなみの島々にここから行けていたのは発見でした!」
橋を渡って西の方へ。振り返ると石鎚山系の山々のシルエットがはっきりと見えました。
ここから多賀のまちは一気に雰囲気が変わります。この道路が、主要地方道壬生川丹原線(通称産業道路)。この先は、道が碁盤の目になっています。
日野:「お!ここに出るんですね。よく通る道路です」
館長:「ここから先は知っとるでしょ。この道路から先は、『三津屋土地区画整理事業』で昭和39年新産業都市に旧壬生川町の区域が指定された折に計画、整備された地域なんです」
この工事、工期は昭和43年12月~53年3月、総事業費は11億円をかけて行われました。
“これにより、壬生川駅前周辺はその様相が一変し、近代的な都市機能を持った新しい市街地が形成された”と多賀郷土史には書かれています。
多賀地区の沿岸部にも企業の大きな工場が立地し、隣の吉井地区には今でもフェリーが停泊する東予港があり、産業と交通のターミナルとしてこの整備は重要な意味を持ったのでしょう。
館長:「日野さん、あれ。『バスの店』って。昔は国道沿いで本当にバスの車体を利用してお店しよったんよ」
日野:「行ったことあります。皆に親しまれてる店ですよね」
住宅の塀がよけるようにして、「史跡 吉塚」というお塚がありました。
館長:「さかのぼること南北朝時代の合戦の戦死者をまつる塚を合わせておまつりしたもんなんよ。寄せ塚ともいいます。区画整理のときにここに建てられました」
駅前通りの手前に、共立病院や通所介護センター まほろばが建っています。
館長:「ここにね、見てもらいたいものがあるので、入ってみましょう」
日野:「え、いいんですか?」(というか、何が…?)
二階に行くと、壁全体が資料展示スペースになっています!
館長:「ここの佐藤院長が、郷土の作家“林 芙美子”氏の研究の第一人者でね。資料も著書もすごい揃ってるでしょ」
故・森光子さんが演じた『放浪記』の著者として有名な林氏は、西条ゆかりの人。
こちらが収集、研究されている佐藤公平院長。この日、都合よくこちらにいらっしゃるそうで、来ていただけました。
佐藤:「私が活動するまちづくりグループ『アトリエしまなみ』で、尾道・西条ともにゆかりがある林芙美子氏のことをテーマとすることになりました。全集などに載っている彼女の年表の表記が、あるときを境に変わっていたことに気が付きまして、それが彼女のことをここまで掘り下げるきっかけです。
調べ出してからは、出張の際には必ず古本屋を回るようにして。東京の神田や神保町、北九州、神戸三宮など何百軒も行きましたね。本はここが日本で一番揃っとんじゃなかろか」
林芙美子は、父・麻太郎が吉岡地区の新町に生家があり、新町には石碑が、壬生川駅には父に宛てた手紙のモニュメントがあります。
日野:「この施設の利用者さんじゃなくても、見に来て大丈夫でしょうか?」
佐藤:「ああ、もちろん。お気軽にどうぞ!東予地域文化祭では毎年『林芙美子展』を出展しておりますので、よければそちらも」
その後は、また西の方へと。2つめの川 大曲川を渡り、左岸へ。
チェックポイント5 蛭子神社に到着です。
館長:「多賀郷土史によると、毎年9月19日には、三津屋北東組によってお祭りが開かれて、子ども相撲を奉納してるそうです」
日野:「小さいけど、地域の人らが大切にしてる感じの神社ですね」