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広報専門員の気ままに西条歩き Vol.5玉津地区(後編)

ページID:0035289 更新日:2016年9月16日更新 印刷ページ表示

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彼らは、この理髪店の息子さん兄弟。
夏休みはこの水風船遊びにはまってたそう。

水風船用の小さなサイズのではなく、
息を吹き込む普通の風船に水を入れて投げ合っていました。
大胆でいいね!

お兄ちゃんの庵仁(あんじ)君は、
「これ見てよー?」と

パンパンの風船をボールペンの先でバシャーーー!!!

水風船遊び

すごい!ダイナミック!

大笑いさせていただきました。

弟の晏央(あお)君には

「アオくん、めっちゃ歯ぁ抜けとるやん」

と言いましたところ、

こんな厳つい顔をしてくれました。

アオくん

ありがとうね~。

2ショット

車の通行量の比較的多い道を歩いたからか

あまり通行人に会わなかったこの日。

彼らに元気をもらいました。


マップ 下島山大橋

もうすぐ折り返し地点。

その手前で、「開田記念碑」と刻まれた
大きな石碑を見つけました。

開田記念碑

玉津小100周年記念誌によると、裏側には

顧みるに、(中略)高燥にして自然灌漑の便なく、且つ砂礫多く、専ら甘藷、イナビを作るの外なき所にして、人口灌漑の施設整いて、之が美田化は耕作者一同の永年渇望する所なりき。(中略)大正十一年七月完成を見るに至りたり。(中略)之が為め、八町の痩地転じて今日の美田となる。恩恵の及ぶところ、豈独り一個人一部楽のみならんや。…

と刻まれているとのことでした。

玉津校区にはこのような開拓記念碑や
復旧記念碑が多く建てられています。

それは、室川・渦井川の氾濫、船屋地区の干拓、水不足による
ため池の整備やそれらへの台風被害の克服などの
先人たちの苦労の記録でもあります。

玉津小学校の100年史から抜粋しても、昭和62年まででも
以下のような波乱の歩みが記録されています。

・明治32年 洪水により壊滅する。

・昭和20年 台風により校舎倒壊する。

・昭和26年 台風により被害あり。

また、平成16年の台風21号上陸後
飯積橋はこのような状況になりました。

玉津橋

平成16年台風21号災害記録写真展 より

水の被害を受けやすい地理的要因から、
玉津校区は防災への取り組みにも
積極的に取り組まれているそうです。

この夏は、日照りこそ続いたものの、
台風や土砂災害の大きな被害もなく、
地震も起きず、よかったな~と思う反面、

いつ起きるかわからない災害に
あらためて備えようと思ったのでした。


先人が苦労して開拓した田を臨みます。

出穂して実り始めた稲が、この日の強風に吹かれ
サワサワ、サラサラと音を立て、波になっていました。

出穂した稲波

国道11号バイパスをいったん北へ。

マップ 下島山大橋

渡ってすぐ、田んぼか畑だったであろうところが
ヒマワリ畑に。

小ぶりで、背の低いのが、
大勢そろって太陽のほうを向いています。

(品種は、景観用で草丈の低い
キッズスマイルやパチノゴールドというものでしょうか。)

ひまわり畑

その西、福毘(ふくび)の集会所の花壇の、
一面のランタナとアゲハチョウも
心を和ませてくれました。

ランタナ

大きく、黒っぽい色なので
夏に成虫になった夏型のアゲハチョウのようです。

(春型はやや小ぶりで、全体的に薄い黄白色だそう)


福毘集会所のすぐ隣にあるお寺が、西福寺です。

マップ 西福寺

お地蔵さんが並ぶ石畳を行くと、

西福寺 石畳

弘法大師像が迎えてくれます。

きりっとした、端正なお顔立ちです。

西福寺 弘法大師像

このお寺はおよそ1200年の歴史を持ちます。

天正年間の戦の炎、
江戸時代享保年間の火災により
2度も消失されましたが、再度復興されました。

現在の本堂はこちら。

西福寺 本堂

比較的新しいのは、
昭和60年に改築されたそうです。

由来は西福寺は昔広野の中にあり、弘法大師の開基と伝わるも誰の創建か詳(つまび)らかではない。(中略)天正年中の兵火にかかり、堂舎経巻等すべて灰燼(かいじん)となる。(中略)享保年中、再び火災により仏閣僧院一時に焼土となり、四十数年の後、宝暦年中五ケ村の檀家の資縁により、現在の本堂が再興せられたが、全盛時の規模に比べれば十分の一であるという。

明比 学 著『西條の歴史探訪』より


マップ 飯積神社

そしてとうとう、たどり着きました。

飯積神社!

飯積神社

飯積神社

こちらの主な神様は、農耕を守護とする米の神、稲の精霊
飯積大明神(倉稲魂命〈うかのみたまのみこと〉・お稲荷様)。
ほか、

・足仲彦(たらしなかつひこ)天皇=仲哀(ちゅうあい)天皇
・息長足姫(おきながたらしひめ)尊=神功皇后
・国魂愛比売(くにたまえひめ)
・十城別王(ごきわけのきみ) 五座の神を祭っています。

境内に茂っていた古代からの神聖な櫟(いちい)の木は、
最近すっきりと剪定され、
非常に見通しは良くなっています。

飯積神社 本堂

階段を上った丘の上の本殿。
ガラス張りで、モダンな雰囲気。

その近く、櫟(いちい)津の岡 という碑が立っています。

岡の上の碑

『西條の歴史探訪』にはこのような記載がありました。

祭神の仲哀天皇・神功皇后が、当地へ来られ櫟を折って笏(しゃく・官位のある者がもつ細長い板)とせられたという社伝により、神社の山の麓を櫟津(潮水がのぼり船着であったから)と言い、神社のある山を櫟津の岡と伝えている。

「神功皇后の伝説のあるこの地は早くより開け
飯積神社には武国疑別命(伊曽乃神社祭神)の孫
十城別命(ときわけのみこと)が合祀されている」

と記されています。

また、国魂愛比売については、

古事記に「伊豫国を愛比売といい讃岐国を飯依比古(いいよりひこ)といい」とある愛比売であろう。とすれば、その国、その地方の古くから原住民に信仰されている神であろう。

明比 学 著『西條の歴史探訪』より ※一部加筆

仲哀天皇と神功皇后といえば、
九州の熊襲討伐の際に立ち寄り、頂上に登ってお祈りした
伝説の残る、甲賀神社〈吉岡〉
を思い出しました。

仲哀天皇や神功皇后にまつわる神社は
全国にたくさんありますが
この地にも訪れたのではないでしょうか。

関連のある古事が、この西条でいくつも。
点と点が線になる思いです。

飯積神社 階段からの風景


ウォーキングマップの指示通りにいけば、
あとは飯積大橋から元来た道を帰るのみ。

マップ 吉祥庵

それじゃ、面白くないので、マップ(↑)赤丸辺りの
吉祥庵を経由することにしました。

大きな木

「巨大くすのき」の対岸の大きな木には、
セミのぬけがら。

セミの抜けがら

下校する中学生。

下校する中学生


吉祥庵に到着です。

吉祥庵

『西條の歴史探訪』によると、

こちらは、地蔵尊を祭る地蔵庵ではありますが、
吉祥密寺といっていたそうです。

寺の入口の道しるべには「金比羅大門へ十七里」と
刻まれ、昔は金比羅参りで通る人も多かったとのこと。

庵の墓地には、西條藩の医者や学者などが眠っています。


最後は、近道。

さらさらと海水が満ちてくる渦井川を渡っちゃいます。

渦井川を渡る

玉津小まで戻ると、
玉津クラブ軟式野球スポーツ少年団の横断幕に、
さっきの兄弟の名前が。

玉津小学校

すごいやん。


玉津を歩いた日はお天気に恵まれ、
何度も山並みを仰ぎ見ました。

こんなに石鎚連峰が美しく見える場所があるとは
思いもしなかったのです。

また、幾度となく災害の被害にあった場所ということも
今回初めて知りました。
「津」をはじめとした
水に関する漢字が地名に多く使われていた玉津。

そして、伊曽乃神社と飯積神社
2つの大きな祭りの舞台となる玉津。

ずっと、玉のような美しいまちであってほしいものです。

次回は、また東予地区へと赴いてみようと思います。

ご愛読、ありがとうございました。


【追伸】

いしづちロード

コース上にはありませんでしたが、この
赤いラインの道は、石鎚山が真正面にきれいに見え
通称「いしづちロード」と呼ばれています。

ぜひ、見てみてくださいね!

広報専門員 日野

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参考

協力:玉津公民館

参考資料:西条市ウォーキングマップ、玉津公民館だより、西條の歴史探訪、玉津小学校開校百周年記念誌

お問い合わせ

・ウォーキングマップについて…健康医療推進課  TEL:0897-52-1215

・地域のことについて…玉津公民館  TEL:0898-72-2620

・この記事について…シティプロモーション推進課 広報係  TEL:0897-52-1204


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