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広報専門員の気ままに西条歩き Vol.21橘地区(前編)
地域のウォーキングレポート第21弾
このコーナーでは、西条市の広報専門員 日野が、市内の校区を一つずつ歩いてレポートしています。
2018年10月10日(水曜日)くもり
西条まつりに向けて、まちが準備を整える頃。西条市のだいたい真ん中、橘地区を訪れました。
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人口1,885人。「橘」の地名は、奈良時代の郡郷制(ぐんごうせい)から来ていて、平安時代から「伊予の国新居郡立花郷(たちばなごう)」と呼ばれていた。
立花郷は、現在の氷見地区と橘地区を合わせた範囲の「氷見村」だったが、次第に分かれ、明治時代に昔の郷名「立花」をとって「橘村」として独立した。現在のランドマークとしては、西田地区にある石鎚神社口の宮本社が有名。
まち歩きには、市より発行の「西条市ウォーキングマップ」を利用しています。
スタート地点、橘公民館はこちら。
国道11号「楢木(ならのき)交差点」を南に入ったところに立地しています。
この方が、今回の案内人 橘公民館の川上正起館長。ウォーキングマップには載っていない数々の見どころも併せて連れて行ってもらうことになります。
まず初めに「阿弥陀堂」。
本尊は阿弥陀如来。
こちらは、天正の陣に討ち死にしたと伝えられる今井玄蕃頭(げんばのかみ)の祠です。
境内には藤棚も!立派なたたずまいですが、こちらは市教育委員会指定の天然記念物「阿弥陀寺ののだふじ」です。
阿弥陀堂の向かいには、市の青少年育成センターがあります。「お疲れ様です」と顔を出すと、指導員の永井克征さんが出迎えてくれました。
私は親しみを込めて「永井先生」と呼んでいます。永井先生は、私が西条西中に通った時、社会を担当してくださったんですよ。
この時期咲きほこるキンモクセイ。
いくつものお宅の庭先で、多くはこんなふうにきれいに丸く剪定され、祭りの到来を待っているかのようでした。
キンモクセイの匂い=祭り! ということで、祭り好きな西条市民は、今年も日本全国で「匂ってきたね」「祭りやね」と口をそろえたことと思います。
ルート沿いのお宅で、出かける準備をする農家さん 松井正武さんに出会いました。地下足袋がカッコイイ。
日野:「おはようございます~。今からお仕事ですか」
松井:「ほうよ、これから稲刈りじゃ」
そう、稲刈りシーズン。
橘は田んぼの多い地域なので、いるだけで実った稲の匂いがします。
春は植物の芽吹き、花や土の匂い。夏は濃厚な草いきれ。農業が盛んで自然が豊かな西条では、毎日、嗅覚からでも季節を感じることができます。
こちらのまっすぐな道は、讃岐街道(太政官道)。古くから利用されてきました。
西条まつり 石岡神社の祭礼では、だんじりが列をなし、この道を石鎚神社まで巡行します。
ハレの日を前に、道沿いのお宅の方は庭木の剪定に励みます。
おや、小さな神社と馬塚がありました。
川上:「これはね、丹民部守塚(たんみんぶのかみのつか)というんよ」
丹民部守清光(たんみんぶのかみきよみつ)は、天正の陣に参加し、この地で敵将と差し違えて討死したと伝えられています。
民部守は足を負傷して出陣し、また吃音のために即座に声が出なかったからといわれているため、この塚は「民部さん」と呼ばれて人々の信仰が厚く、吃音の神様、足の神様として全国にも知られるようになりました。
明治以降、戦傷者の使った松葉杖などの道具類も多数奉納され、線香が絶えることがないそうです。
大町地区 福武西の川原の山麓にも、民部神社があります。このあたりに住む丹一族を祀っている祠とのことです。
川上:「日野さん、ちょっとこっちのほうも来てみて」
旧道を国道側へ抜けると、立派な石垣が。このあたりには珍しい水路もあります。
日野:「館長、これは?」
川上:「これは木村屋の石垣いうてね、昔の船着き場だったところなんよ。」
日野:「こんなところまで船が来ていたんですか?結構海岸線から距離があるような…」
川上:「今は埋め立てられとるけど、昔は、潮が満ちて水量が増えたら、ここから北にある川のほうへ船で行きよったようです」
日野:「まったく違う景色やったんですね!」
なんと、あとで調べると、この石垣の家に住んだ商人が、西条随一の桜の名所「武丈」(現在の武丈公園)に桜を植えたということもわかりました。
(花見客でにぎわう武丈公園)
それゆえに屋号は近江屋といわれます。本家の何代目かの重蔵は、氷見村の掛屋役中屋喜蔵と共に、3年の年月をかけて八堂山に芳野の桜・高尾の楓の苗木を各々数千本植え、「伊予の小嵐山」を作った人です。
二又に分かれた右の道を進み、次の目的地「石鎚神社」へ向かいます。
道端の草木は、秋の色。
石鎚神社は、石鎚山(1982m)の山頂に石土毘古神(いしづちびこのかみ)が祀られ、石鎚山という山そのものがご神体です。
頂上社(1982m)、成就社(1450m)、土小屋遥拝殿(1500m・石鎚スカイライン終点)、そしてここ口の宮本社の4社を総称して石鎚神社です。
石鎚信仰の由緒・沿革
山路を開き、登拝者を導き、常住社(じょうじゅしゃ・今の中之宮成就社)を創立するに至りました。
その後、四国八十八カ所第六十番札所の横峰寺(よこみねじ)、同じく第六十四番札所の前神寺(まえがみじ)が常住社の別当寺(べっとうじ)となって、幕末、明治維新を迎え同時に明治天皇の大命により、神仏混淆が禁止され、別当寺が廃止となり石鎚神社と定められました。
石鎚神社公式ホームページより抜粋
参道沿いに「奉燈」と彫られた灯籠があります。
川上:「大坂・竹本・天保って文字が彫られとるんやけどね。江戸時代、大阪の竹本という人(たち)が、ここで芝居などの興行をした記念に奉納されたんじゃなかろかね」
これ以外にもたくさんの灯籠が立っています。普段あまり気にしてこなかったなぁ。
少し歩き、お寺の山門のような神門をくぐります。
こちらには神仏習合だったことを感じさせる、阿吽の天狗像が。
(口を開けた阿形)
(口を閉じた吽形)
私たちはさらに、石鎚神社の奥へと進みます。