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水の歴史館 兼久の大池

ページID:0070422 更新日:2015年1月15日更新 印刷ページ表示

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兼久の大池
「兼久の大池」築造と越智喜三左衛門

愛ノ山から「兼久の大池」を望む(丹原町高松)写真
愛ノ山から「兼久の大池」を望む(丹原町高松)

『真鍋家記録』(池ノ内文書)によると兼久の大池築造の記録として、次のように記録されています。
 池床:8町8反7畝16歩(8.8716ヘクタール)
 水坪:118,800坪(70万立方メートル)
 堤防:234間(425.4541メートル)
 夫役:85,805人8分

 松山領周布・桑村両郡代官の星野七郎正直(ただなお)は、当時の釜之口用水流末の5ケ村(高松・今井・池田東西、願連寺)の水不足を補うため、貯水池を造り旱害(かんがい)に備えたいと考え、自ら池としての適地を踏査しました。

 その結果最適と考えた予定地は、後方二面を愛ノ山(198.4m)に囲まれ、南境には高松川が貫流し、おおよそ三角形のくぼ地で、一部凹湿地もあり、そのほとんどは田地であったため、池の築造にはもってこいの場所であるとの結論に達しました。

 そこで天明7年(1787)11月代官の星野は、大池構築にはここが最適の場所であるとして藩許(松山藩の許可)を乞い、準備期間の2年間のあいだに古老や庄屋を召集し意見を求めました。

 愛ノ山の麓(ふもと)に大池を造りたいという代官の星野の話を聞いた古老や庄屋たちは、一同口をそろえて、「池を造るにはもってこいの(理想的な)場所・地形であるが、大池予定地の方が中山川の水流より高い」との意見が大勢で、「中山川の釜之口から池に用水が流れていかず、疎水(そすい)の点で大いに問題があるから思いとどまったほうがいい」と難色を示しました。

 これに対して水利土木に精通した大庄屋の越智喜三左衛門は、「御一同が地形の高低を議論されるのはもっともである。しかし、自分は過去数年来、この試みについての志しをもっている。釜之口辺りから土地の高低をみるに、やや下流下につく感があるから、疎水の心配には及びますまい」と自信の色を浮かべて熱心に説得をしたといいます。

 その後、喜三左衛門は、測量技術の発達していない当時に、釜之口から大池予定地まで数十の提灯を配置し、高低を調べることを思いつき、村人の協力のもと、夜になるのを待って中山川の南側にある赤坂山(標高233m)へ登り、土地の高低を目測・心測するなど、およそ3ヶ月にわたって熱心に調査研究したと伝えられています。

赤坂山から「兼久の大池」を望む(丹原町寺尾)写真
赤坂山から「兼久の大池」を望む(丹原町寺尾)

 そうして自信を得た喜三左衛門は、遂に衆議を一蹴して、断然疎水が可能であると代官の星野に進言しました。ここにおいて、代官は藩命を仰ぎ、寛政元年(1789)11月9日ついに待ちに待った藩許が下りました。同年12月7日の起工ということは間髪いれぬ速さであって、喜三左衛門がこの時を治下の農民と共にいかに待ち構えていたかが伺えます。

 工事起工後は治下の農民と力をあわせ池造りに励み、機械力のない時代の大工事であったにもかかわらず、着工後1年4ヶ月余りの突貫工事を行い寛政3年(1791)4月15日に完成しました。

 『大池池塘記』(おおいけちとうき)には「課するに農隙(のうげき=農作業の合間)を以ってし日事を妨ぐるなし」と記されていますが、それは治者(ちしゃ)側の理想であって、実際には賦役督励(ふえきとくれい)がかなり厳しかったようで、またそのような言い伝えもたくさん残っているようです。

 延べ人数85,805人8分で、463日間でこの工事が完成していますが、この間には農繁期(田植えや稲刈り約80日)や、雨の日や嵐の日(愛媛県の降雨日年間平均約100日)もあったということからすれば、実工事日数はおおよそ278日くらいであったと思われます。すなわち1日の平均出動賦役人数は約300人くらいであったということが想像出来ます。

 現在、丹原町寺尾の赤坂山に登って「釜之口」と「兼久の大池」を一直線に見渡してみると、「釜之口」よりも「兼久の大池」のほうがはるかに高い位置にあるように見えます。目の錯覚でしょうか、不思議な光景です。

釜之口から「兼久の大池」までの水利図
釜之口から「兼久の大池」までの水利図
(池之内水利組合蔵 昭和11年作成)

旧釜之口堰跡にある案内看板(丹原町長野)の写真
旧釜之口堰跡にある案内看板(丹原町長野)

今も昔も変わらない釜之口堰樋門と金毘羅道渡船場跡の写真
今も昔も変わらない釜之口堰樋門と金毘羅道渡船場跡

昔の釜之口堰跡(丹原町長野)の写真
昔の釜之口堰跡(丹原町長野)

 掛井手(かけいで)とは、丹原町長野の末友地区にある左側の樋門から大池までの距離2.86キロメートルの水路のことをいいます。その間ほぼ一直線で幅2メートル、深さ平均2メートル(所によって約3メートル)の掘割水路を石積みで造っていましたが、昭和25年-26年の兼久の大池の樋の大改修の際に、以前より小ぶりの三方張りのコンクリート水路になりました。

 高松川の下を斜めに渡る石積みの暗渠は手付かずの状態でしたが、昭和29年に直径1.5メートルのコンクリート管に改修され、さらに51災(昭和51年の災害)で高松川を直角に横断するコンクリート製の水路橋に改修されています。

 掛井手の流れを見ても分かるように流れは緩やかです。大池予定地の方が高いといって反対した、古老や庄屋の意見にもうなずけるところがあります。測量技術の発達していなかった当時に、喜三左衛門の卓越した水利土木技術には目を見張るばかりです。

釜之口堰からの掛井手までの釜之口幹線水路(丹原町長野)の写真
釜之口堰からの掛井手までの釜之口幹線水路(丹原町長野)

掛井手の始点(左側)釜之口幹線水路(右側)(丹原町長野 末友地区)の写真
掛井手の始点(左側)釜之口幹線水路(右側)
(丹原町長野 末友地区)

掛井手上流(丹原町長野)の写真
掛井手上流(丹原町長野)

掛井手中流(丹原町長野お旅所ほたるの水辺付近)の写真
掛井手中流(丹原町長野お旅所ほたるの水辺付近)

掛井手下流の水路橋(丹原町高松)の写真
掛井手下流の水路橋(丹原町高松)

掛井手終点=兼久の大池(丹原町高松)の写真
掛井手終点=兼久の大池(丹原町高松)

 「兼久の大池」は「池之内池」とも呼ばれ、現在は面積11町7反(1,170アール)貯水量は46万トンで道前第一の大池です。その受益面積は5百町歩(500ヘクタール)に及んでいます。現在では道前平野土地改良区の管理のもと、面河ダムの調整池として有効に使われています。

 喜三左衛門は中山川に来見堰を築造し、さらに、自らの私財を投じ、自らもノミと鎚を振るい安永9年(1780)から寛政元年(1789)まで9年間をかけて岩石打割水路(劈巌透水路)を造りました。

 さらに寛政元年(1789)12月7日には「兼久の大池築造工事」が起工され、喜三左衛門は休む暇もなく設計監督者として、その卓越した水利土木技術を生かし、着工後1年4ヶ月余りの期間で突貫工事を行い、寛政3年(1791)4月15日、兼久の大池を完成させています。

越智喜三左衛門が造った劈巌透水路(丹原町来見)の写真
越智喜三左衛門が造った劈巌透水路(丹原町来見)

劈巌透水路案内看板(丹原町来見)の写真
劈巌透水路案内看板(丹原町来見) 

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